ひとりの時間を楽しめるようになった第3話
この話は約1966字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
翌朝、私は6時には目を覚ました。
白いシャツに3回アイロンをかけ、髪をまとめてはほどき、結局は以前、時哉が似合うと言ってくれた髪型を選んだ。
7時過ぎ、時哉から電話がかかってきた。その声は少し低かった。
「すぐそっちへ行く。朝食も買った。ブラックコーヒーも」
私はスマートフォンを強く握った。
「分かった」
20分後、時哉の車が道端に止まった。
歩み寄ろうとしたとき、後部座席の窓が下がった。中には詩乃が座っていて、額にはまだ熱冷まし用のシートが貼られていた。
詩乃は私に微笑んだ。
「夕花、私もついでに病院でもう1度診てもらうの。2人の邪魔はしないから」
時哉は車を降り、私に朝食を差し出した。
「少し食べとけ。これから時間がかかりそうだ」
私は袋に目を落とした。
おにぎりは私が好きな店のもので、コーヒーも確かにブラックだった。けれど次の瞬間、車の中から、詩乃が苦しそうに声を漏らした。
「時哉、少し息が苦しい」
時哉の顔色がすぐに変わった。彼はドアを開け、詩乃の額に触れた。
「どうしてこんなに熱いんだ?」
詩乃は時哉の手首をつかんだ。
「私のことはいいから、先に夕花と手続きしてきて。今日は大事な日でしょ」
けれど詩乃がそう言えば言うほど、時哉がここを離れるはずはなかった。
時哉は私を見た。
「先に受付番号を取っておいてくれ。詩乃を病院へ連れていって、点滴を受けさせたら戻る」
私は時哉を見つめた。
「時哉、今日は入籍する日でしょ」
「分かってる」
「でも、受付時間を過ぎたら今日手続きできなくなる」
「間に合う」
時哉は確信に満ちた口調で言った――私に約束するときは、いつだってそうだった。
そうして私は1人で手続き窓口のある庁舎へ入った。受付番号が3回呼ばれても、時哉はまだ来なかった。
窓口の表示番号は、すでに私の受付番号を過ぎていた。職員は婚姻届と本人確認用の書類を私に返した。
「受付番号を取り直していただくしかありません」
私は書類を抱えてその場に立ち尽くしていた。するとそのとき、スマートフォンの画面が明るくなった。
詩乃から写真が1枚送られてきた。
時哉はうつむいて詩乃の会計をしていて、スマートフォンは詩乃の膝に載っていた。
詩乃はそこに、ひと言添えていた。
【夕花、ごめんね。今日は本当なら、2人にとって大切な日だったのに】
どれくらい時間が経っただろう、時哉がようやく駆けつけた。額には汗が浮かんでいた。それでも手には花束を持っている。
「道が渋滞してた」
私は花を受け取らず、順番を過ぎた受付番号票だけを時哉に差し出した。
「もう役所の窓口は閉まったよ」
時哉は数秒黙り、私の腕の中に花束を置いた。
「来週、また来ればいい」
私は笑った。
「簡単に言うんだね」
「夕花、たった1週間だ」
「あなたにとっては、たった1週間なんだね」
私は時哉を見上げた。
「でも私にとっては、4年間待ってきた」
時哉の表情が急に冷たくなった。
「夕花、婚姻届のことで、どちらかを選べと迫るな。詩乃は具合が悪いんだ。1人で病院に置いておけるわけがない」
私は花束を時哉の手に返した。
「じゃあ、どうして私のことは1人でここに置いておけるの?」
時哉は言葉に詰まった。数秒後、時哉は私を引き寄せようと手を伸ばした。
「もういい。昼は一緒に食事をして、午後はブライダルショップへドレスを見にいこう。あのサテンのが好きだと言ってただろ?」
私はその手を避けたそのとき、スマートフォンの画面が明るくなった。
詩乃がまたSNSを更新していた。
写真の中では、時哉が腰をかがめて詩乃の靴ひもを結び、病院の廊下の明かりがその肩に落ちていた。
投稿には、こう書かれていた。
【彼氏じゃないのに、彼氏より安心させてくれる人もいる】
共通の友人たちが、その下ではやし立てていた。
【じゃあ、時哉の奥さんになるのは誰?】
詩乃は返信しなかった。けれど時哉は、それを目にした。
時哉の最初の反応は誤解を解くことではなく、私の画面を消すことだった。
「詩乃は具合が悪いんだ。責めにいくな」
私は時哉を見上げた。胸を何かに強く握り締められたようで、息をすることさえ痛かった。
「時哉、私はまだ何も言ってない」
「でも、何を言いたいかは分かる」
時哉の声には疲れがにじんでいた。
「夕花、おまえとの結婚を、こんなにしんどいものだと思わせないでくれ」
一瞬、私はその場で動けなくなった。
この4年、私は何度も何度も譲ってきた。それなのに、どうして最後には、そのすべてが彼にとって「面倒」になってしまったんだろう。
時哉もすぐに、言いすぎたと気づいたらしい。唇がわずかに動いた。
「そういう意味じゃない」
私は握り潰した受付番号票を見下ろし、急に何ひとつ説明したくなくなった。
「もう、どうでもいい」
私は受付番号票を時哉の手に置き、背を向けて歩き出した。
時哉は追ってこなかった。私も振り返らなかった。
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