なぜ恋人の私があなたの旧知に我慢すべきなの?第3話
この話は約2579字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
翌日、蓮の秘書がアンティークの懐中時計を届けてきた。
父のものと同じブランド、同じ年代のもので、オークション価格は優に1000万円を超える代物だ。
秘書がベルベットの箱を私の前に差し出した。
「佐伯社長はこの時計を探し出すために、午前中の会議を2つもキャンセルなさいました。
それから、遥様も深く反省しておられますので、これ以上責めないでほしいとのことです」
私は箱を開けようともしなかった。
蓮はいつだって、惜しみなく補償をしてくれる。けれど、私がなぜ傷つき、痛んでいるのか、蓮は決して見ようとはしない。
午後、私はカレッジから提出を求められていたコンペティションの出展作品を抱え、展示会場へと向かった。
この一連の作品は、奨学金の獲得がかかった極めて重要なものであり、私が海外へ渡る前に済ませておくべき最後の大仕事でもあった。
車が市街地を抜けた頃、蓮から電話がかかってきた。
「出かけたのか」
「ええ、審査会に向かっているところ」
電話の向こうで、数秒の静寂が流れた。
「何時に終わる? 迎えに行く」
私はスマホを握りしめ、すぐには答えられなかった。
昨夜、遥を抱きかかえて出て行ったとき、彼は一度も振り返らなかった。
それなのに、今日の私の審査会のことは覚えているのだ。
「午後4時」
「わかった」
蓮の声が、少し柔らかくなった。
「終わったらどこにも行かずに待っていてくれ。お前の好きなモンブランを予約してある。遥も、直接謝罪したいと言っている」
二度と元には戻らないと分かっていながら、彼はこうして私の機嫌を取ろうとする。
以前の私なら、彼が少し折れるだけで、すぐに心を許してしまっていただろう。
けれど、もう二度と、そんな過ちは犯さない。
「大事な審査があるの。終わってからにして」
電話の向こうが再び静まり返った。
「何時に終わるんだ。迎えに行くと言っているだろ」
その一言だけで、築き上げた心の壁が、脆くも崩れ去りそうになる。
冷めきっていたはずの心が、情けなくも揺らいでしまう。
言葉を返そうとしたその瞬間、凄まじい衝撃とともに、車体が大きく揺れた。
背後から、鼓膜を突き刺すような激しい衝突音が響き渡る。
運転手が急ブレーキを踏み、固定台に置いてあった作品用のガラスケースが床に激突した。
頭をぶつけた痛みを気にする余裕もなく、私はドアを押し開けてトランクへと駆け寄った。
作品のメインフレームが、無残にも3つにへし折れている。
私はその場に立ち尽くし、息をすることさえ忘れてしまった。
2年という歳月、千枚を超えるスケッチ。そのすべてが、目の前で一瞬にして無に帰したのだ。
後ろに停まった白い車の運転席から、遥が真っ青な顔をして走り寄ってきた。
「ゆず、ごめんなさい!」
「蓮から、あなたが私に会いたがらないって聞いて……
本当に見捨てられちゃうんじゃないかって怖くなって、車で後を追ってきたの」
遥は私の手を掴み、全身をガタガタと震わせながら泣き叫んだ。
「さっき、スマホを落としちゃって……
下に落ちたのを拾おうと下を向いた一瞬で、ブレーキを踏んだのに気づかなくて……」
私はその手を振り払い、警察を呼ぶためにスマホを取り出した。
遥は慌ててそれを阻止しようとする。
「警察だけは呼ばないで!
スマホのながら運転で事故を起こしたなんてバレたら、一発で免許取り消しになっちゃう!」
私が手を止めないと察すると、彼女は今度は壊れたガラスケースを奪い取ろうとした。
「弁償するから! 今すぐ私が修理に持っていくから!」
「触らないで!」
すべてが遅すぎた。
砕けたガラスの鋭い断面が、彼女の手首を切り裂いた。
鮮血が勢いよく噴き出す。
駆けつけた蓮が真っ先に目にしたのは、私の額から流れる血だった。
彼は大股で私の前に歩み寄り、両手で私の顔を包み込んだ。
「どこを打った。頭痛やめまいはしないか」
彼の眼差しに、鼻の奥がツンと熱くなる。
しかし、答えるよりも早く、背後から遥の声が響いた。
「蓮……」
蓮が振り返る。
血まみれになった彼女の手首を見るやいなや、彼は即座にジャケットを脱ぎ捨てて傷口を強く圧迫した。
「なぜ割れたガラスに触ったりしたんだ」
「ゆずの作品を……私が直してあげたくて……」
遥は泣きながら私を見上げた。
「全部、私のせいなの……でも、わざとぶつけようとしたわけじゃないの、本当に!」
そこへ警察官が近づき、事故の処理方針について尋ねてきた。
蓮は彼女の傷口を抑えたまま、一切の迷いなく告げた。
「単なる前方不注意による追突です。示談にします」
私は弾かれたように顔を上げた。
「同意しない!」
「遥が怪我をしているんだぞ」
「私の作品が壊されたのよ」
「世界最高の修復師を手配する」
「審査会まであと40分よ。今からじゃ誰にも直せない」
蓮は口を閉ざした。
私は壊れた作品を腕に抱え、通りかかったタクシーを止めた。
結末がどうあれ、最後の最後まで抗うことだけは諦めたくなかった。
しかし、蓮が容赦なくタクシーのドアを押さえた。
「そんなガラクタを持っていったところで、審査の対象にすらならない」
ガラクタ。
なぜ私が命がけで大切にしてきたものが、彼にとっては容易に値踏みできる程度のものに成り下がるのだろう。
私は彼をじっと睨み据えた。
「どうなろうと、あなたには関係のないことよ」
そのとき、遥が突然胸を押さえ、その場に屈み込んで激しく嘔吐し始めた。
急ぎ電話で確認した医師は、衝突の衝撃による脳震盪の疑いがあるとし、直ちに搬送するよう指示した。
蓮は彼女を助手席に抱き入れた。
ドアを閉める直前、彼は私を冷淡に見下ろした。
「お前はここに残って、事故の後片付けを頼む。
遥の様子が落ち着いたら、俺からカレッジへ説明してやるから」
私は、粉々になったガラスの中に立ち尽くし、ただ作品を抱きしめた。
「佐伯蓮。カレッジは、私を待ってはくれないのよ……」
彼は私を見つめ、固く唇を結んだ。
だが、車内から遥の苦しげな呻き声が響くと、彼はすぐに向き直り、無情にもドアを閉めた。
40分後、カレッジから通知が届いた。
【期日までに作品が提出されなかったため、奨学金候補の資格を取り消します】
その短い一行を、私は長い時間見つめていた。
涙が溢れるかと思ったが、私はただ静かに立ち尽くしているだけだった。
心臓が何かにじわじわと握り潰されていくようで、痛みが極限に達した先には、ただ冷徹な麻痺だけが残されていた。
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