どんな生活費の申請も夫の秘書に却下される件第3話
この話は約1614字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
いつも冷静な千晶が、怜司からのメッセージを見るなり、30分近く彼を罵った。
私に向ける目にも、もどかしさがにじんでいる。
「先生が生きていたら、あなたにどれだけ腹を立てたことでしょう」
私はうつむき、小さな声で答えた。
「もう弁護士さんが手続きを進めています。もらうべきものは、1円だって譲りません」
千晶がため息をつく。
「明日はまず入院しよう。体が一番大事だよ。お金は私が出す。でも、貸すだけだからね」
私は小さくうなずいた。顔が、火であぶられたように熱い。
情けなくて、みじめだった。
午後、入院に必要な書類を取りに、千晶と家へ戻った。
歩いたせいでふくらはぎがむくんでいた。そこをさすっていると、怜司が帰ってきた。
手には折りたたみ式のペットカートを持ち、背後には瑠奈がいる。
私を見るなり、彼は言った。
「新しいデザインの原画を、瑠奈に渡せ」
私は顔を上げる。
「今、なんて言ったの?」
彼の口調は相変わらず落ち着いていた。
「瑠奈がプロジェクトを任されるのは初めてなんだ。彼女には今、自分の腕を磨くチャンスが必要だ。あの日、グループチャットででたらめを言ったお詫びとして、渡してやれ」
ふくらはぎをさすっていた手が止まった。
千晶が怒りに任せて立ち上がる。
「怜司、よくもそんな図々しいことが言えるね!」
千晶はそのペットカートを指さし、皮肉を込めて続けた。
「一番大きな取引先を獲得して、一流の経営者たちの輪に入れるようになったのは、紗月のデザインのおかげでしょ。それなのに、また彼女の作品を取り上げて、別の女にチャンスを与えるの?
今回は手ぶらじゃないんだね。ペットカート1台で買い取ろうってわけ?」
怜司はうんざりした顔をした。
「俺と紗月の問題だ。部外者には関係ない」
瑠奈が横から説明する。
「紗月、誤解しないで。これは怜司さんがポチに買ってくれたの。もう年で、歩けなくなってきたから。
ベビーカーが必要なら、怜司さんに買ってもらえばいいよ」
ポチは、彼女の犬だ。
高級ブランドのロゴを見ていると、ばかばかしくなった。
2週間前、子供のために4万円のベビーカーを買おうと、私は3回申請した。
3回とも却下された。必要性がない、無駄遣いだ、予算オーバーだという理由で。
それなのに、彼がペットカートを持っているのを見た瞬間、私はわずかでも期待してしまった。そんな自分が悲しかった。
怜司に目を向ける。喉が乾き、痛んだ。
「そのペットカートは、何色で承認されたの?」
彼は一瞬、言葉を詰まらせた。
「これは別だ。いちいち難癖をつけるな」
「何が違うの?」
「瑠奈のそばにいるのは犬だけなんだ。それに、お前の友達だろ。そんなくだらないことで張り合うなよ」
当然だと言わんばかりの顔を見ていると、もう何も言えなくなった。
私はソファに手をつき、立ち上がる。
「千晶さん、行きましょう」
2歩ほど進んだところで、手首をつかまれた。
怜司の声が柔らかくなる。まるで、譲歩してやるというように。
「紗月、デザイン画を渡せば、すぐに病院の特別室を手配してやる。出産までずっと入っていていい。
それに、子供に必要なものなら、全部申請していいぞ」
少し間を置き、なだめるような口調で付け足した。
「黄色で承認してやる」
瑠奈も慌てて言う。
「絶対に止めないから」
千晶は胸を大きく上下させていた。前に出ようとするのを、私は止めた。
そして穏やかに、怜司に言った。
「この子は、あなたの子供なのよ」
「俺の子供だからこそ、何週間も早く入院するのを認めてやるんだろ」
突然、お腹に鋭い痛みが走り、私は思わず前かがみになった。
怜司はその苦しさにも気づかず、ただ頑なに返事を待っている。
千晶が間に入り、彼の手を外した。目を赤くして、私の体を支えてくれる。
私は顔を上げ、ひと言ずつ告げた。
「原画は渡さない。でも、入院はする」
そう言って、ゆっくりと外へ向かった。
背後で怜司の冷たい声がした。
「紗月、俺を試すな。でないと、泣きついてくることになるぞ」
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