そして昨日、銀杏は落ちた第2話
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克哉は、夜の冷たい空気をまとったまま帰ってきた。
高価そうなそのジャケットは、別の女の肩にかけられていた。
克哉は夏美を一瞥だにせず、慣れた手つきでネクタイを緩めると、何気なく彼女に手渡した。
いつもの、ごくありふれた日常の一コマのように。
「彼女は松田杏奈。知ってるだろ、大学の同級生だ。うちが契約したタレントでもある」
説明する気などなさそうな、平坦な口調だった。
この女のために出しゃばって、法外な条件の契約を結んだ。そんな馬鹿げたことなど、まるで無かったかのようだった。
言い終わると克哉は、夏美の目の前で、目を真っ赤にして泣いている杏奈の前に跪いた。
かつて夏美の指に結婚指輪をはめてくれたその手で、今は別の女に優しくスリッパを履かせている。
「山下さん、この子を洗面所へ。クローゼットに着替えを用意してある」
夏美は、家政婦の山下に連れられていく杏奈の後ろ姿を見つめていた。喉が詰まり、何か問い詰めようとしたその時、ふと克哉に手を握られた。
「夏美……」
彼はまた、夏美にとって見慣れた優しい顔つきに戻っていた。
「お前はこの間、仕事に復帰したいって言ってただろ?
ちょうど杏奈と契約したことで、うちも芸能界に進出できる。お前たちは同級生で杏奈のことも分かるだろうし、しばらく彼女のアシスタントをやってくれ」
夏美は信じられないというように、目を大きく見開いた。
「なんて?私の専門はコンピューターよ!それに……」
しかし、夏美が言い終わる前に、克哉は手を振って話を遮った。そして、杏奈が去った方へ視線を向けた。
その声は、有無を言わせぬ迫力があった。
「いいか。これはもう決まったことだ」
去っていく克哉の後ろ姿を見て、夏美はまるで深い穴に突き落とされたような衝撃を受けた。
翔の容体が安定し、やっと仕事への情熱を取り戻したところだった。翔の未来のため、脳科学とコンピューターの融合分野を研究しようとさえ考えていた。
ずっとお願いして、やっと克哉に認めてもらえたばかりだった。
それなのに、今はたった一人の評判の悪い女のために、長年積み重ねてきた専門知識も、自分の夢も、こんなにあっさりと否定されてしまうなんて!
夏美は血の味が滲むほど強く下唇を噛みしめ、どうにか涙を堪えた。
彼女は寝室に駆け戻ると、何日も徹夜して書き上げた二冊の技術報告書を掴み、克哉の元へと急いだ。
一縷の望みをかけて、彼女は懇願するように口を開いた。
「克哉、私には主任エンジニアが務まるって、証明させてほしい」
その声は、微かに震えていた。
「この報告書には、新しいプロジェクトの致命的な欠陥が書かれてるの。修正しないままリリースすれば、大問題になるわ。こっちが、その解決策……」
克哉はスマホの画面に視線を落としたままで、報告書を受け取ろうとする気配は全くなかった。
その時、後ろから杏奈のか細い声が聞こえてきた。
「克哉、ちょっと気分が……頭がクラクラする……」
克哉は勢いよく立ち上がると、ためらうことなく夏美を突き飛ばし、杏奈の元へ駆け寄った。
突き飛ばされた夏美はよろめいて床に倒れ込み、抱えていた報告書が散らばった。
夏美が必死で拾おうとした、まさにその時だった。焦って駆け寄る克哉の足が、無情にも最も重要な解決策のページを踏みつけた……
3日も徹夜して、何度も計算と検証を重ねた、努力の結晶だったのに。
「あっ……」
彼女は思わず声を上げ、その足をどかそうとした。
しかし克哉は見向きもせず、むしろ杏奈を横抱きにした。その声は、夏美が聞いたこともないほど焦っていた。
「どこが辛い?すぐにかかりつけの医者を呼ぶ!」
杏奈を抱きかかえてその場を去ろうとした克哉は、ふと夏美に視線を向けた。
みすぼらしい格好で床に座り込み、無駄だと分かっていながらも紙を引き抜こうとしている彼女を見て、克哉は端正な眉を不機嫌そうにひそめた。
「夏美、自分の今の姿を見てみろ」
克哉の声は氷のように冷たかった。
「こんな紙切れは、二度と俺の前に持ってくるな!これからのお前の仕事は、杏奈の世話をすることだけだ」
紙切れ?
宝物のように大切にしてきた、会社の未来を左右するほどの技術の結晶を、彼は紙切れだと言ったの?
その瞬間、夏美には自分の心が砕け散る音が聞こえた気がした。
それだけでは足りないというかのように、克哉は杏奈を抱いて階段を降りながら、言葉を続けた。
「そんな無駄な報告書を作る暇があるなら、もっとましなことをしたらどうだ。今日から杏奈は静養が必要なんだ。お前はゲストルームに移れ。夜は翔のそばにいてやれよ、泣き声で杏奈の邪魔をしないようにな」
夏美は去っていく克哉の後ろ姿を見つめていた。その瞳から光が少しずつ消えていき、やがて完全になくなった。
彼女はしばらくして、ようやく立ち上がった。涙は流さず、ただ散らばった報告書を一枚一枚拾い集めた。
紙についた埃と足跡をそっと払い、きちんと整えてから、彼のデスクの上に置いた。
克哉、あなたのためにしてあげられるのは、これで最後よ。
決心を固めた夏美は、すぐにある場所に電話をかけた。
彼女の用件を聞くと、電話の向こうからは大喜びの声が返ってきた。
「……問題ない!遅くとも今月末までには、君が海外の研究院に行けるよう、すべて手配しておくよ!」
夏美は電話を切った。下の階で杏奈を優しく慰める克哉の後ろ姿を見つめながら、目尻の涙を拭った。
ここから去るのは、克哉の妻としてではない。
自分自身としてだ。
そう、ただの、自分だ。
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