そして昨日、銀杏は落ちた第3話
この話は約2080字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
その夜、夏美はなかなか寝つけず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
克哉がどこに行ったのか。彼女は気にならなかったし、もう気にしたくもなかった。
翌朝早く、夏美は翔の甲高い泣き声で目を覚ました。
夏美は急いで子供部屋に駆け込んだ。すると、人見知りのはずの翔が、杏奈の服の裾をぎゅっと握りしめて、たどたどしく一言を発していた。
「マ……マ……」
夏美は全身の血が凍りつくのを感じた。
まさか翔が初めて呼ぶ「ママ」が、他の女だなんて。
杏奈は翔を抱き上げると、隣にいる克哉を振り返った。三人の姿は、まるで本当の家族のようだった。
ドアの前に青ざめた顔で立ち尽くす夏美を見ても、克哉は顔色一つ変えず、当たり前のように言った。
「杏奈が今日、パーティーのドレスを選びに行くから、お前も付き合ってやれ。ああいう場所は、一人じゃ心細いだろうからな」
夏美の心は、ナイフで抉られるように痛んだ。
もう何年も一緒にいるのに、彼は一度だって、自分を大事な場に連れて行ってくれたことがなかった。
問い詰めても、「お前はああいう場には向いてない」と言われるだけで、結局うやむやにされてきた。
夏美はぎゅっと指先を握りしめた。
「わかったわ」
彼女は俯いて、すべての感情を押し殺した。
月末まで、あとたったの2週間。
ここから完全に逃げ出すまで、耐えなければならない。海外で生活が落ち着いたら、この男に離婚を切り出そう。
翔のことは……夏美は苦しげに目を閉じた。
自閉症の子供を連れて逃げるなんて、現実的じゃない。
まずは一人でここを出て、それから方法を考えるしかない。
高級ブティックへ向かう途中、杏奈は親しげに夏美の腕に絡みついてきた。
「夏希さん、これからあなたは私のアシスタントなのね。仲良くしようね!
本当に感謝してるの。克哉も私も、大学時代のあなたがどれだけ優秀だったか、ちゃんと覚えてるわ」
彼女はにこりと甘く笑った。
「安心して。私が必ず、克哉の社運を賭けた契約を成功させてみせるから。絶対に彼をがっかりさせたりしないわ!」
自分の名前すらまともに呼ばない杏奈を見ても、夏美の心はもう何も感じなかった。
そんなことは、もうどうでもよかった。
社運を賭けた契約がどうなろうと、彼女には関係のないことだ。
店に入ると、店員はみんな杏奈を取り囲み、誰もその隣にいる地味な服装で無表情な夏美には気づかなかった。
杏奈が三着目のドレスを試着していた時、突然、店の入り口が騒がしくなった。
「松田!お前の父は工事費も払わずにムショに入りやがった!それなのにお前はのうのうと贅沢しやがって!このクソ女!金返せ!」
作業員風の中年男たちが、警備員を突き飛ばして店になだれ込んできた。
杏奈はさっと顔色を変えると、ためらうことなく夏美の帽子とマスクを奪い取った。
「ここを出て右に曲がれば裏口よ!」
そう言うと、彼女は反対方向へ走ろうとした。
男たちの怒りは警備員では抑えきれず、人の波が店の中に押し寄せてきた。もう逃げられないと思ったのか、杏奈は突然、夏美を前へ突き飛ばした。
「あなたたちが探してるのは彼女よ!私は替え玉!」
まるで、時間が止まったかのようだった。
夏美が反応する間もなく、怒り狂った男たちに囲まれてしまった。
汚物を浴びせられ、彼女は地面に倒れ込んだ。腕を踏みつけられ、鈍い痛みが走る。
ぼやける視界の中、克哉が慌てて駆けつけてくるのが見えた。
彼は緊張した面持ちで、自分のジャケットを脱ぐと、震える杏奈の肩にかけた。そして、彼女を庇いながら足早にその場を去って行った。
一度も振り返えって夏美を見なかった。
夏美は、どうやって家に帰ったのか覚えていなかった。
体は汚物にまみれ、一歩進むごとに、床に悪臭を放つシミが残った。
「くさっ!うえっ!」
翔は彼女を見るなり、怯えたように後ずさり、小さな手で杏奈の服の裾を強く握った。
「ママ……ママ……ママ……だっこ……」
その瞬間、夏美は心の中で何かがぷつりと切れる音を聞いた。
克哉が近づいてきたが、その目には嫌悪の色が浮かんでいた。彼はくるりと背を向けると、翔が夏美を見ないようにその視界を遮った。
「夏美、早くシャワーを浴びてこい。あまりにも臭い」
夏美は、ただ一言、克哉に聞きたかった。
さっきお店の前で、本当に自分のことが見えなかったの?
しかし、克哉はすぐに顔をそむけ、杏奈の腕から翔を受け取ると、優しい声で話しかけた。
「工事費は、さっき俺が立て替えておいた。もう怖がることはない」
満面の笑みを浮かべる杏奈を見て、夏美は急に吐き気を催した。
シャワーを浴びて身支度を終えると、大学の先輩の高木弘樹(たかぎ ひろき)から電話がかかってきた。
「準備はすべて整ったよ。月末には出発できる。君のお母さんの転院手続きも済ませておいた。でも……本当に、子供は連れて行かないのか?」
夏美は鏡に映る惨めな自分を見つめた。そして、他の女の腕にぴったりと寄り添っていた翔の姿を思い出す。彼女の声は、恐ろしいほど静かだった。
「連れて行きません」
夏美は少し間を置いてから、一語一句、はっきりと告げた。
「克哉には、離婚協議書を送りつけますわ」
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