そして昨日、銀杏は落ちた第1話
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この5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。
かつての輝かしい功績も、今や「工藤グループの社長夫人」という肩書きにすっかりかき消されてしまった。
彼女の聡明さや努力を褒める人はもういない。みんなただ羨ましそうに、「玉の輿でいいね」と言うだけ。
夫の工藤克哉(くどう かつや)は、一代で会社を築き上げた男だ。わずか数年でIT業界の寵児となり、資産は数兆円とも言われている。まばゆいばかりの成功を収めた人物だった。
そんなすごい人なのに、彼は今でも夏美を宝物のように大切にしていた。
夏美のつわりが酷かったときは、夜通し予定していた会議を全部キャンセルして、彼女の検診に付き添ってくれた。
夏美が食べるものにこだわれば、克哉は農場を丸ごと一つ買い取った。そして、自ら野菜を一つ一つ育て、手料理を振る舞ってくれるほどだった。
息子の工藤翔(くどう しょう)が自閉症だと診断された夜もそうだった。克哉は目を赤くしながら彼女の手を強く握り、決して責めることはなく、「大変だったね。二人で乗り越えよう」と言ってくれたのだ。
彼は全財産を夏美に預け、何事も彼女を優先した。これまで、少しの嫌な思いをさせたことなんて、一度もなかった。
そう、あの日、夏美が地下室で偶然にも隠し扉を見つけてしまう、その日までは……
* * *
この5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。
かつての輝かしい功績も、今や「工藤グループの社長夫人」という肩書きにすっかりかき消されてしまった。
彼女の聡明さや努力を褒める人はもういない。みんなただ羨ましそうに、「玉の輿でいいね」と言うだけ。
夫の工藤克哉(くどう かつや)は、一代で会社を築き上げた男だ。わずか数年でIT業界の寵児となり、資産は数兆円とも言われている。まばゆいばかりの成功を収めた人物だった。
そんなすごい人なのに、彼は今でも夏美を宝物のように大切にしていた。
夏美のつわりが酷かったときは、夜通し予定していた会議を全部キャンセルして、彼女の検診に付き添ってくれた。
夏美が食べるものにこだわれば、克哉は農場を丸ごと一つ買い取った。そして、自ら野菜を一つ一つ育て、手料理を振る舞ってくれるほどだった。
息子の工藤翔(くどう しょう)が自閉症だと診断された夜もそうだった。克哉は目を赤くしながら彼女の手を強く握り、決して責めることはなく、「大変だったね。二人で乗り越えよう」と言ってくれたのだ。
彼は全財産を夏美に預け、何事も彼女を優先した。これまで、少しでも嫌な思いをさせたことなんて、一度もなかった。
そう、あの日、夏美が地下室で偶然にも隠し扉を見つけてしまう、その日までは……
……
扉を開けた瞬間、背筋が凍るような寒気がした。
狭い部屋の壁一面に、同じ女の人の写真がびっしりと貼られていた。
少女時代から、今の落ちぶれた姿まで。パソコンのディスプレイまでもが、彼女の寝顔だった。
それは、松田杏奈(まつだ あんな)だった。
大学時代はミスキャンパスに選ばれたほどの美女。でも今は、悪い噂が絶えない落ちぶれた女優だ。
克哉が作ったこの地下室に、こんな狂気じみた想いが隠されていたなんて。
夏美は、必死に平静を装って、奥歯をぐっと噛みしめた。
心臓が自分の意思とは関係なく激しく脈打ち、恐怖が蔦のように体を締め付けてくる。
突然スマホが震えた。セレブ妻のグループラインで、友人の今井静香(いまい しずか)から立て続けに動画が送られてきた。
「夏美、あなたのご主人が岩崎さんの結婚式で……とにかく、これを見て」
岩崎雄太(いわさき ゆうた)、あの有名な芸能プロダクションの社長よね?
なぜ克哉は自分を連れて行ってくれなかったんだろう。そう考える間もなく、夏美は心臓が止まるような思いで動画を再生した。
そこには、結婚式場に乱入する杏奈の姿。手には真っ赤なペンキの入ったバケツを提げている。
招待客が悲鳴をあげる中、彼女は新郎新婦に向かって思い切りペンキをぶちまけた。
「ご結婚おめでとう!岩崎社長!」
雄太は顔にかかった赤いペンキを拭い、狂ったように笑う女を鋭い目つきで睨みつけた。
ボディーガードが駆け寄ってきて、杏奈を乱暴に取り押さえる。彼女はよろめき、地面に膝をつきそうになった。
「やめろ!」
克哉が駆け寄り、ボディーガードを突き飛ばすと、みすぼらしい姿の杏奈を背後にかばった。
そして、自分のスーツの上着を脱いで、震える彼女の肩にかけてやった。
雄太は信じられないという目で見ていたが、相手が相手だけに、強くは出られないようだった。
「工藤社長?一体どういうおつもりですか?」
静まり返った会場で、克哉は端正な顔に迷いの色一つ見せず、はっきりとした声で言った。
「松田さんは、うちが新しく契約したタレントで、俺は彼女の雇い主です」
会場は騒然となった。
杏奈といえば、実家が没落し、雄太に婚約を破棄されてからは素行も悪くなった。悪い噂が絶えず、業界では誰も手を出したがらない厄介者だというのは、周知の事実だったからだ。
雄太は鼻で笑った。
「工藤社長も人がいいですね。あんなガラクタを拾って、工藤グループの看板に傷がつくとは思いませんか?」
克哉はメガネの位置を直すと、少し顔を上げて、傲慢な態度で相手を見た。
「彼女の価値は、俺が決めます。
岩崎社長がご信用なさらないのでしたら、ここで一つ、賭けをしませんか?
一年以内に、松田さんをトップスターにしてみせます。もしできなければ、工藤グループの全株式をお譲りします」
彼はその場で契約書を作らせ、それにサインすると、呆然とする人々を後に、杏奈の肩を抱いて去っていった。
動画はそこで終わっていた。静香から送られてきたボイスメッセージは、からかうような口調だった。
「夏美、ご主人のかばい方は、ちょっとやりすぎじゃない?あの松田って女、気をつけた方がいいわよ!」
夏美はただ、画面の中で克哉が杏奈に向ける眼差しを、じっと見つめていた。
その眼差しには、ひたむきで痛ましいほどの愛情が宿っていた。それは、彼女が今まで見たこともないほど強いものだった。
夏美の心は、ずしりと重くなった。
疑念と絶望が入り混じった感情が胸に込み上げ、息が完全にできなくなった。
夏美は狂ったように目の前のパソコンのロックを解除しようと、震える指で杏奈の誕生日を入力した。
すると、画面が明るくなった。
目に飛び込んできた一文を読んで、夏美の頬を涙が伝った。
【もし卒業式のあの日、俺が行っていたら、俺たちの結末は違っていたんだろうか】
この言葉が、自分に向けられたものではないことくらい、すぐに分かった。
過去の記憶が、痛みと共に一気によみがえってきた。
あの頃、夏美と克哉は、情報科学科で最も注目を集める二人の天才だった。
克哉は才能にあふれ、すらりとしていて、夏美は派手さはないものの、優しく知的で、物静かな雰囲気を持っていた。
二人はいつも図書館で肩を並べて勉強していた。克哉が席を取っておいてくれれば、夏美はプログラミングに夢中な彼の手元に、そっと温かい牛乳を置いた。
クラスのみんなはとっくに二人をカップルだと思っていて、いつも冷やかされていた。
グループ課題ではいつも克哉がリーダーだった。コーディングで行き詰まると、彼はさりげなく身を乗り出して夏美の手に重ねてマウスを握った。そのとき、温かい息が耳元をくすぐった。
「ここは、こうすればもっと良くなる」
ある日の学園祭で、きらびやかな杏奈がステージに登場した。まるで輝く星のようだった。
夏美はステージを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「家柄も良くて、綺麗で、彼氏は芸能プロダクションの社長だっていうし、卒業を待たずにデビューも決まってるなんて……あんな子、まるで高嶺の花みたい。誰もが手に入れたいって思うよね」
でも、杏奈が甘いラブソング『ソフトスウィート』を歌い、会場中が彼女に熱狂している、まさにその時だった。
隣にいた克哉が、そっと夏美の手を握ったのだ。
彼の目つきは澄んでいて、確かな意志を宿していた。
「高嶺の花なんて、手が届かないよ。
だから、俺は花が欲しいなんて思わない。俺が欲しいのは、お前だけだ」
その瞬間、夏美の心は完全に克哉に奪われた。
それから二人は、大学で誰もが羨むカップルになった。
二人揃って特待生に選ばれ、数々のコンテストでは息の合ったコンビネーションで、たくさんのトロフィーを手にした。
誰もが、二人は知性も感性もぴったりで、未来が明るいと言っていた。
卒業式では、優秀な学生の代表として二人並んでスピーチをし、希望に満ち溢れていた。
幸せで胸がいっぱいだった夏美は、式の後、克哉を実家に連れて行って両親に紹介するつもりでいた。
しかし、式が終わり、人々が会場を後にしていく中で、彼のスマホの画面が光った。
なんと、杏奈からのメッセージだった。彼女が開くプライベートな卒業パーティーへの招待状だ。
それを見た夏美は、一瞬きょとんとしたが、すぐににっこり笑ってみせた。
「まさか、松田さんからお誘いが来るなんて!せっかくだから、うちの大学の有名人に会いに行ってきたら?」
克哉は画面を見つめたまま、一瞬、指先の動きが止まった。
ほんの2秒にも満たない間。でも、幸せの絶頂にいた当時の夏美にとって、それは気にも留まらないようなことだった。
結局、克哉は画面を消すと、彼女に優しく微笑んだ。
「バカなこと言うなよ。俺と彼女に接点なんてないんだから、きっと間違いだよ。
それより、今はお前のお母さんに会うことの方が大事だ」
その時は、彼が迷いなく自分を選んでくれたのだと信じていた。
二人はすぐに結婚し、愛情に満ちた、幸せなものだった。
夏美は、自分が克哉の唯一の、そして最愛の人なのだと、心の底から信じていた。
この薄暗い地下室を見つけるまでは。動画の中で、彼が杏奈に向けていた、あの熱い眼差しを見るまでは。
夏美は、痛みと共に、はっと現実に引き戻された。
卒業式のあの日、克哉が行かなかったパーティー。それは、彼が口にしたように、決して軽い気持ちで断ったものではなかったのだ。
あれは、心の奥底に深くしまい込まれた、未練と執着だったのだ。
じゃあ、自分は一体何だったの?
本命が手に入らなかったから、代わりに選んだ妥協の産物?
克哉が本当に愛する人と結ばれるのを阻む存在、邪魔者なの?
どうやって重い足を引きずって、克哉のあの「秘密基地」から出てきたのか、覚えていない。
頭が混乱していたが、玄関のドアが開く音で、はっと我に返った。
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