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そして昨日、銀杏は落ちた第1話

この話は約4313字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

この5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。

かつての輝かしい功績も、今や「工藤グループの社長夫人」という肩書きにすっかりかき消されてしまった。

彼女の聡明さや努力を褒める人はもういない。みんなただ羨ましそうに、「玉の輿でいいね」と言うだけ。

夫の工藤克哉(くどう かつや)は、一代で会社を築き上げた男だ。わずか数年でIT業界の寵児となり、資産は数兆円とも言われている。まばゆいばかりの成功を収めた人物だった。

そんなすごい人なのに、彼は今でも夏美を宝物のように大切にしていた。

夏美のつわりが酷かったときは、夜通し予定していた会議を全部キャンセルして、彼女の検診に付き添ってくれた。

夏美が食べるものにこだわれば、克哉は農場を丸ごと一つ買い取った。そして、自ら野菜を一つ一つ育て、手料理を振る舞ってくれるほどだった。

息子の工藤翔(くどう しょう)が自閉症だと診断された夜もそうだった。克哉は目を赤くしながら彼女の手を強く握り、決して責めることはなく、「大変だったね。二人で乗り越えよう」と言ってくれたのだ。

彼は全財産を夏美に預け、何事も彼女を優先した。これまで、少しの嫌な思いをさせたことなんて、一度もなかった。

そう、あの日、夏美が地下室で偶然にも隠し扉を見つけてしまう、その日までは……

* * *

この5年で、工藤夏美(くどう なつみ)に対する周りの評価は、「優秀な人」から「運のいい人」へとすっかり変わってしまった。

かつての輝かしい功績も、今や「工藤グループの社長夫人」という肩書きにすっかりかき消されてしまった。

彼女の聡明さや努力を褒める人はもういない。みんなただ羨ましそうに、「玉の輿でいいね」と言うだけ。

夫の工藤克哉(くどう かつや)は、一代で会社を築き上げた男だ。わずか数年でIT業界の寵児となり、資産は数兆円とも言われている。まばゆいばかりの成功を収めた人物だった。

そんなすごい人なのに、彼は今でも夏美を宝物のように大切にしていた。

夏美のつわりが酷かったときは、夜通し予定していた会議を全部キャンセルして、彼女の検診に付き添ってくれた。

夏美が食べるものにこだわれば、克哉は農場を丸ごと一つ買い取った。そして、自ら野菜を一つ一つ育て、手料理を振る舞ってくれるほどだった。

息子の工藤翔(くどう しょう)が自閉症だと診断された夜もそうだった。克哉は目を赤くしながら彼女の手を強く握り、決して責めることはなく、「大変だったね。二人で乗り越えよう」と言ってくれたのだ。

彼は全財産を夏美に預け、何事も彼女を優先した。これまで、少しでも嫌な思いをさせたことなんて、一度もなかった。

そう、あの日、夏美が地下室で偶然にも隠し扉を見つけてしまう、その日までは……

……

扉を開けた瞬間、背筋が凍るような寒気がした。

狭い部屋の壁一面に、同じ女の人の写真がびっしりと貼られていた。

少女時代から、今の落ちぶれた姿まで。パソコンのディスプレイまでもが、彼女の寝顔だった。

それは、松田杏奈(まつだ あんな)だった。

大学時代はミスキャンパスに選ばれたほどの美女。でも今は、悪い噂が絶えない落ちぶれた女優だ。

克哉が作ったこの地下室に、こんな狂気じみた想いが隠されていたなんて。

夏美は、必死に平静を装って、奥歯をぐっと噛みしめた。

心臓が自分の意思とは関係なく激しく脈打ち、恐怖が蔦のように体を締め付けてくる。

突然スマホが震えた。セレブ妻のグループラインで、友人の今井静香(いまい しずか)から立て続けに動画が送られてきた。

「夏美、あなたのご主人が岩崎さんの結婚式で……とにかく、これを見て」

岩崎雄太(いわさき ゆうた)、あの有名な芸能プロダクションの社長よね?

なぜ克哉は自分を連れて行ってくれなかったんだろう。そう考える間もなく、夏美は心臓が止まるような思いで動画を再生した。

そこには、結婚式場に乱入する杏奈の姿。手には真っ赤なペンキの入ったバケツを提げている。

招待客が悲鳴をあげる中、彼女は新郎新婦に向かって思い切りペンキをぶちまけた。

「ご結婚おめでとう!岩崎社長!」

雄太は顔にかかった赤いペンキを拭い、狂ったように笑う女を鋭い目つきで睨みつけた。

ボディーガードが駆け寄ってきて、杏奈を乱暴に取り押さえる。彼女はよろめき、地面に膝をつきそうになった。

「やめろ!」

克哉が駆け寄り、ボディーガードを突き飛ばすと、みすぼらしい姿の杏奈を背後にかばった。

そして、自分のスーツの上着を脱いで、震える彼女の肩にかけてやった。

雄太は信じられないという目で見ていたが、相手が相手だけに、強くは出られないようだった。

「工藤社長?一体どういうおつもりですか?」

静まり返った会場で、克哉は端正な顔に迷いの色一つ見せず、はっきりとした声で言った。

「松田さんは、うちが新しく契約したタレントで、俺は彼女の雇い主です」

会場は騒然となった。

杏奈といえば、実家が没落し、雄太に婚約を破棄されてからは素行も悪くなった。悪い噂が絶えず、業界では誰も手を出したがらない厄介者だというのは、周知の事実だったからだ。

雄太は鼻で笑った。

「工藤社長も人がいいですね。あんなガラクタを拾って、工藤グループの看板に傷がつくとは思いませんか?」

克哉はメガネの位置を直すと、少し顔を上げて、傲慢な態度で相手を見た。

「彼女の価値は、俺が決めます。

岩崎社長がご信用なさらないのでしたら、ここで一つ、賭けをしませんか?

一年以内に、松田さんをトップスターにしてみせます。もしできなければ、工藤グループの全株式をお譲りします」

彼はその場で契約書を作らせ、それにサインすると、呆然とする人々を後に、杏奈の肩を抱いて去っていった。

動画はそこで終わっていた。静香から送られてきたボイスメッセージは、からかうような口調だった。

「夏美、ご主人のかばい方は、ちょっとやりすぎじゃない?あの松田って女、気をつけた方がいいわよ!」

夏美はただ、画面の中で克哉が杏奈に向ける眼差しを、じっと見つめていた。

その眼差しには、ひたむきで痛ましいほどの愛情が宿っていた。それは、彼女が今まで見たこともないほど強いものだった。

夏美の心は、ずしりと重くなった。

疑念と絶望が入り混じった感情が胸に込み上げ、息が完全にできなくなった。

夏美は狂ったように目の前のパソコンのロックを解除しようと、震える指で杏奈の誕生日を入力した。

すると、画面が明るくなった。

目に飛び込んできた一文を読んで、夏美の頬を涙が伝った。

【もし卒業式のあの日、俺が行っていたら、俺たちの結末は違っていたんだろうか】

この言葉が、自分に向けられたものではないことくらい、すぐに分かった。

過去の記憶が、痛みと共に一気によみがえってきた。

あの頃、夏美と克哉は、情報科学科で最も注目を集める二人の天才だった。

克哉は才能にあふれ、すらりとしていて、夏美は派手さはないものの、優しく知的で、物静かな雰囲気を持っていた。

二人はいつも図書館で肩を並べて勉強していた。克哉が席を取っておいてくれれば、夏美はプログラミングに夢中な彼の手元に、そっと温かい牛乳を置いた。

クラスのみんなはとっくに二人をカップルだと思っていて、いつも冷やかされていた。

グループ課題ではいつも克哉がリーダーだった。コーディングで行き詰まると、彼はさりげなく身を乗り出して夏美の手に重ねてマウスを握った。そのとき、温かい息が耳元をくすぐった。

「ここは、こうすればもっと良くなる」

ある日の学園祭で、きらびやかな杏奈がステージに登場した。まるで輝く星のようだった。

夏美はステージを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。

「家柄も良くて、綺麗で、彼氏は芸能プロダクションの社長だっていうし、卒業を待たずにデビューも決まってるなんて……あんな子、まるで高嶺の花みたい。誰もが手に入れたいって思うよね」

でも、杏奈が甘いラブソング『ソフトスウィート』を歌い、会場中が彼女に熱狂している、まさにその時だった。

隣にいた克哉が、そっと夏美の手を握ったのだ。

彼の目つきは澄んでいて、確かな意志を宿していた。

「高嶺の花なんて、手が届かないよ。

だから、俺は花が欲しいなんて思わない。俺が欲しいのは、お前だけだ」

その瞬間、夏美の心は完全に克哉に奪われた。

それから二人は、大学で誰もが羨むカップルになった。

二人揃って特待生に選ばれ、数々のコンテストでは息の合ったコンビネーションで、たくさんのトロフィーを手にした。

誰もが、二人は知性も感性もぴったりで、未来が明るいと言っていた。

卒業式では、優秀な学生の代表として二人並んでスピーチをし、希望に満ち溢れていた。

幸せで胸がいっぱいだった夏美は、式の後、克哉を実家に連れて行って両親に紹介するつもりでいた。

しかし、式が終わり、人々が会場を後にしていく中で、彼のスマホの画面が光った。

なんと、杏奈からのメッセージだった。彼女が開くプライベートな卒業パーティーへの招待状だ。

それを見た夏美は、一瞬きょとんとしたが、すぐににっこり笑ってみせた。

「まさか、松田さんからお誘いが来るなんて!せっかくだから、うちの大学の有名人に会いに行ってきたら?」

克哉は画面を見つめたまま、一瞬、指先の動きが止まった。

ほんの2秒にも満たない間。でも、幸せの絶頂にいた当時の夏美にとって、それは気にも留まらないようなことだった。

結局、克哉は画面を消すと、彼女に優しく微笑んだ。

「バカなこと言うなよ。俺と彼女に接点なんてないんだから、きっと間違いだよ。

それより、今はお前のお母さんに会うことの方が大事だ」

その時は、彼が迷いなく自分を選んでくれたのだと信じていた。

二人はすぐに結婚し、愛情に満ちた、幸せなものだった。

夏美は、自分が克哉の唯一の、そして最愛の人なのだと、心の底から信じていた。

この薄暗い地下室を見つけるまでは。動画の中で、彼が杏奈に向けていた、あの熱い眼差しを見るまでは。

夏美は、痛みと共に、はっと現実に引き戻された。

卒業式のあの日、克哉が行かなかったパーティー。それは、彼が口にしたように、決して軽い気持ちで断ったものではなかったのだ。

あれは、心の奥底に深くしまい込まれた、未練と執着だったのだ。

じゃあ、自分は一体何だったの?

本命が手に入らなかったから、代わりに選んだ妥協の産物?

克哉が本当に愛する人と結ばれるのを阻む存在、邪魔者なの?

どうやって重い足を引きずって、克哉のあの「秘密基地」から出てきたのか、覚えていない。

頭が混乱していたが、玄関のドアが開く音で、はっと我に返った。

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