こぼれた想いは、もう戻らない第2話
この話は約1392字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
冷たい風の中でダウンコートを掻き合わせ、待つことほぼ一時間。
足先の感覚が薄れてきたころ、ようやく中から秘書の佐々木が走ってきた。
「奥さま!すみません、社長は今会議に入ってまして……!」
息を切らしながら頭を下げ、私を別棟のヴィラに案内した。
どうやらここ数日、ここを臨時オフィスにしているらしい。
景一は私を見るなり眉を寄せた。
「遅い。書類ひとつでどんだけかかってんだ?
その程度で、仕事したいとか言うなよ」
「……入口で止められて、電話も……」
言い切る前に、苛立った手振りで切られる。
「言い訳はいい。お前さ、そんな調子で外で働きたいとか、よく言えるよな?
書類ひとつ届けるのもできないで、他に何ができるんだよ」
胸がちくっとした。
仕事の話をすると、いつもこの空気になる。
「俺はな、女に外で稼がせる必要なんてない。家で大人しくしてろ。ゆっくりしていればいい」
私は息を飲み込んで、感情を抑えた。
「書類、もう持ってきたので。帰るね」
「待て」
ほんの少しだけ、声が落ちる。
「会議終わったら飯行く。中で待ってろ」
私が返事をする前に、景一は人に囲まれて会議室へ戻っていった。
佐々木に案内され、オフィスのドアを開ける。
一瞬、空気が変わった。
若くて綺麗な女の子がずらっと並んでいる。メイクも服も、隙がない。
景一が女性秘書を採る条件は、はっきり二つあった。
ひとつは、見た目がいいこと。
もうひとつは、二十五歳以下であること。
外では、彼女たちをまとめて「篠原の美女秘書軍団」なんて呼ぶ人もいる。
その中を、妊娠で身体が重くなった私が歩く。
視線がまとわりつくのが分かった。
気にしないふりでソファに座ると、ひそひそ声が耳に入る。
「……誰?」
短いスカートの見知らぬ子が、露骨に私を見て、佐々木に甘えた声で聞いた。
「佐々木さん、この人って……?」
「社長の奥さま」
その子の目が大きくなり、驚いて声のトーンが少し上がった。
「え、奥さま?芸能人?帽子とマスクって、徹底してるね」
「違う」
佐々木が淡く返すと、その子は口を尖らせた。
「へえ、一般人なのに隠すんだ……
見られたくない理由でもあるの?」
もう一人の子がそっと彼女の腕を引いたけど、彼女は気にしなかった。
もう一度、私を上から下まで見て、鼻で笑う。
「……体型もすごい。妊婦さんっていうか、なんか体がでかく見えるね……」
私は視線を落とした。
ダウンコートで隠しても、太っている身体は隠せない。
妊娠した後、体重が日ごとに増えていって、スタイルは完全に崩れた。
帽子とマスクだって、本当は好きでしてるわけじゃない。
景一が「危ないから」って言ったから、従ってるだけ。商売で多くの人に恨みを買ってきたから、私が狙われると大変なのだと。
佐々木が低い声で叱った。
「失礼だよ。社長は奥さまのこと、大事にしてる。敬意を払え」
その子は肩をすくめるだけだった。
私は静かに手招きした。
「ねえ、コーヒー持ってきて」
会議が終わったらしく、景一が戻ってきた。
そして、私の前のコーヒーを見た瞬間、顔が固まる。
「……誰が出した」
その子が勢いよく立ち上がった。
「社長。私です!」
「捨てろ」
その子は顔色を変えてカップを持ち、こぼしそうになりながら外へ出ていく。
景一の視線が私に刺さる。
「今、お前がコーヒー飲めると思ってんの?そんなこと、いちいち言わせるなよ!
もう大人だろ?あっちが分かってなくても、お前まで一緒に軽く考えるなよ」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)