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こぼれた想いは、もう戻らない第1話

この話は約1991字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

妊娠して六か月。

夫の篠原景一(しのわら かげひと)と大喧嘩して、勢いで家を追い出された。

財布は空っぽ。行く当てもない。

凍えそうで、駅前のコンビニへ身を滑り込ませた。

おでんの湯気をぼんやり見ていたら、店員さんがそっと近づいてきた。

「お客さま……うちに最後に一本だけ『記憶を消す水』が残ってるんですけど、いりますか?」

あっけにとられて、しばらく固まった。それから、力なく笑う。

「……お金、ないです」

店員さんはすぐ言った。

「お代はいりません。その代わり……ただお身体の何かと引き換えにしていただきます」

気づいたら、丸く張っているお腹をかばうように手を当てていた。

「……これでも、いいですか」

* * *

妊娠して六か月。

夫の篠原景一(しのわら かげひと)と大喧嘩して、勢いで家を追い出された。

財布は空っぽ。行く当てもない。

凍えそうで、駅前のコンビニへ身を滑り込ませた。

おでんの湯気をぼんやり見ていたら、店員さんがそっと近づいてきた。

「お客さま……うちに最後に一本だけ『記憶を消す水』が残ってるんですけど、いりますか?」

あっけにとられて、しばらく固まった。それから、力なく笑う。

「……お金、ないです」

店員さんはすぐ言った。

「お代はいりません。その代わり……ただお身体の何かと引き換えにしていただきます」

気づいたら、丸く張っているお腹をかばうように手を当てていた。

「……これでも、いいですか」

そう言いながら、コンビニのドアを押した瞬間、冷たい風が首元に入り込んだ。

二、三歩進んだところで、背中に怒鳴り声が刺さる。

「黒川澄子(くろかわ すみこ)!いい加減にしろ!」

振り返ると、景一がこちらに駆けてきた。

足元はスリッパのまま。靴も履かずに飛び出してきたらしい。

「大人が何やってんだよ。家出ごっこか?

妊娠六か月だぞ。こんな時間に外で何かあったらどうする!」

いつもの私なら言い返していた。

通りすがりの人が振り向くくらい、派手にやり合って。

でもその夜は、黙って聞いた。

もう口を動かすのもしんどかった。

散々怒鳴ったあと、こっちがあまりに静かなせいか、景一のほうが言葉を失ったみたいに息を吐く。

「……ったく」

腰に手が回って、ぐっと引き寄せられる。

「外は冷える。帰るぞ」

玄関を入った途端、暖かい空気が肌にまとわりついた。

景一はしゃがんで、私の足にスリッパを履かせてくれた。

「腹、減ってない?なんか作ろう」

「……いらない」

そう言うと、景一は眉間を寄せた。

「夕飯、ほとんど食ってないだろ。お前が平気でも、腹の子は違う」

返事を待たずにキッチンへ入っていった。

しばらくしてテーブルに置かれたのは、見た目だけはやたら豪華な海鮮うどん。

アワビ、ホタテ、エビなど具が山みたいに盛られて、湯気が上がっている。

景一は、いわゆる生まれながらの御曹司で、台所に立つなんて今まであまりなかった人だ。

それでも私が身ごもってからは、外のごはんを嫌がって、頑固に自分で三度の支度を抱え込む。

ただ、味付けがどうにも淡い。

塩気が足りず、素材の匂いがそのまま出る。

辛いものが好きなのに、その好みを彼にはなかなか伝わらない。

「……どう?おいしいか?」

向かいで、景一が私の顔色をうかがっている。

私は箸を取り、うどんを少し口に運んだ。

「……うん。おいしい……と思うよ」

一口で分かった。

魚介の下ごしらえが不十分で、生臭さが、薄いスープに残っている。胃がひゅっと縮む。

それでも顔には出さず、ゆっくり、ゆっくり飲み込んだ。

そのとき、景一のスマホが鋭く鳴った。

通話を切ると、上着とキーを掴んだ。

「急用だ。お前は家にいろ。もう出ないでくれ」

――パァン!

ドアが乱暴に閉まる音。

部屋の空気が一気に冷えた気がした。

私は箸を置き、半分以上残ったうどんを見つめた。

こらえていたものが、喉元まで一気にこみ上げた。

トイレに駆け込んで、吐いた。

落ち着いたあと、冷たい壁に背中をつけると、涙が勝手に出た。

こんな、味のしない生活。気持ち悪くなるだけの毎日。もう無理。

私はスマホを取り出し、迷わず注文した。

激辛の油そばと、旨辛手羽先を山盛り。辛さは一番上。

届いた料理を、私は夢中で食べた。

舌が痛いほど辛いのに、胸の奥がすっとほどける。

景一と暮らし始めてから、いちばんちゃんと美味しいと思えたごはんだった。

食べ終えると、広いベッドにひとり潜り込む。

その夜は、何も考えずに眠れた。

景一は帰ってこなかった。

メッセージも、一本もなかった。

翌朝、ようやく電話が来た。

声はいつも通り、命令みたいに硬い。

「書斎に大事な書類置いてきた。今すぐ持って来い。リゾートホテル美萩」

理由は聞かなかった。

書類を見つけて、タクシーで向かった。

でもホテルの入口で警備員に止められた。

「申し訳ありません。こちらは会員制でして、ご招待か確認が取れないとお通しできません」

そこで仕方なく景一に電話をかけたが、何度かけても繋がらない。

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