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こぼれた想いは、もう戻らない第3話

この話は約1618字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。

秘書課は、水を打ったみたいに静まり返っていた。誰も顔を上げない。怒らせたら終わりそうな空気。

彼の言葉に、胸をぐっとえぐられた。

喉の奥がつんと痛んで、唾を飲み込むのもつらい。

このままじゃ、息が詰まる。

私はそっと、彼のスーツの裾をつまんだ。沈黙を壊すために、自分から言った。

「……お腹、すいた」

思ったより小さい声だった。

景一は何も言わずにスマホを取り出した。ホテルに栄養食を、部屋へと短く指示を出した。

料理はすぐに運ばれてきた。

盛り付けは美しく、食材も高級で、味付けはあっさりヘルシー。

彼の要望をすべて満たしている。

けれど、彼は席につかない。

「ゆっくり食べろ。俺はこのあと、チームと食事だ。下の庭で」

彼が去った後、私はバルコニーへ出た。

眼下に広がっていたのは、彼の言う「チームの食事」。

長いビュッフェ台。

その周りを、華やかなワンピースを着ている秘書たちが取り囲んでいる。

笑顔を貼りつけて、距離が近い。

景一は中央で、グラスを片手に余裕の笑みを浮かべる。

もう片方の手は、隣の秘書の椅子の背もたれに自然に置かれている。

女たちの中心に君臨するその姿は、まるで王様みたい。

胸の奥が、ひくっと縮む。

結婚したばかりの頃を思い出した。

あの「美女秘書軍団」が嫌で、何度も彼と言い争った。距離が近すぎる、替えてほしいって言っていた。

そのたび、彼は笑って話をはぐらかした。

「会社の顔だぞ。そんなことで騒がないで」

そう言って、私の頬を両手で優しく包み込み、この先の生涯、身も心も私一人だけだと誓ってくれた。

確かに、この何年も彼には大きなスキャンダルはなかった。

でも今、下の庭で。

短いスカートの秘書が、葡萄を一粒つまみ、彼の唇の前に差し出す。

景一は迷わず口を開けた。

私の喉の奥が、まるであの葡萄でふさがれたみたいに詰まる。

息が、できない。

続けて、その秘書が立ち上がり、ブランコのほうへ向かう途中で――

「きゃっ」

足がふらついたみたいに声を上げて、そのまま、景一の膝の上に落ちた。

景一の手が、流れで彼女の腰を支えた。

笑いながら、景一がからかうように言う。

「だからさ。普段からダイエットしすぎるなといっただろう?歩くのもふらふらになったんだよ?」

軽い冗談。

そう言いながら、彼はそのまま秘書を横抱きにして、ブランコまで運び、丁寧に、そっと座らせた。

今の光景を見て、目が焼けるみたいに痛かった。

庭でうるさく笑っている人たちに、私は手の中のスマホをぎゅっと握りしめ、全身の力を込めて勢いよく投げつけた。

スマホは中庭の温水プールの真ん中に重たく落ち、大きな水しぶきを上げた。

下の騒ぎが、ぴたりと止まる。

みんな驚いた顔で上を見上げた。

景一も顔を上げた。

その視線は迷いなく、バルコニーの私を捉えた。

遠いのに、目だけが合う。

私は手すりを掴んだまま、掠れた声で叫んだ。

「篠原景一!上がってきて!今すぐ!」

景一はすぐに来た。

ドアを開けて入ってきた彼の顔は、怒りで真っ青。

私は手元の枕を掴み、思い切り投げた。

彼は避けず、枕が力なく胸に当たった。

「……また何なんだよ。何を騒いでる」

私はテーブルの「健康食」を指さした。

「どうして、あんたたちはバーべーキューを楽しんで酒まで飲んでるのに……私だけこれなの」

景一は冷たく言う。

「少しは考えろ。妊娠してるだろ。医者も薄味のものを食べるべきだと言っているぞ。

お前のためだ。子どもが生まれたら、食べたいものは何でもいい。好きにしろ。それでいいだろ」

また、子どもを理由にする。

子どものために、私はあとどれだけ我慢しなきゃいけないんだろう。

そもそも私は、子どもが好きじゃない。

それなのに妊娠したのは、景一が勝手に避妊薬をすり替えたからだ。

景一は近づき、箸で茹でた野菜をつまんで私の口元へ運ぶ。

声を柔らかくして、言い聞かせるみたいに。

「ほら。口、開けて」

私は勢いよく顔を背けた。

涙が勝手に溢れてくる。

「子ども、子どもって……!妊娠したら、食べる自由もないの?」

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