いばらの道を共に歩もう第2話
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晴香は、私がこれまで出会った中で根気強い人だ。
翌朝早く、彼女はもう私の家の前に立っていた。手にはアメリカーノを2杯ぶら下げ、まるでこれから戦場へ向かうかのように真剣な顔をしている。
「会社まで送る。ついでに浩人のことも話そう」
「話すことなんてないよ」
「思乃、昨日何時に寝たの?」
私は答えなかった。
午前3時まで、東町に関するプロジェクトの資料を確認していたからだ。
「目の下のクマがひどくなってるよ」
晴香はコーヒーを私の手に押しつけた。
「飲んで。それから本当のことを言って。もう一度彼に会う覚悟はできてる?」
「昨日、もう会ったじゃない」
「会うのと、心の準備ができてるのとは別でしょ」
私はコーヒーを一口飲んだ。
苦さに、思わず顔をしかめる。
「晴香。3年前のことなら、もう吹っ切れたよ」
「へえ?じゃあ教えて。最後に泣いたの、いつ?」
「泣いてない」
「泣かなかったんじゃない」
晴香の声が、ふいに柔らかくなった。
「泣くことすら怖かったんでしょ。思乃、それは吹っ切れたって言えない。ただ、押し込めてるだけ」
私は黙り込んだ。
窓の外を1台のバスが通り過ぎた。
ブレーキの音が、鋭く短く響いた。
私は、別れてから最初の1ヶ月を思い出した。
ある日、残業を終えて家に帰り、ドアを開けたその瞬間、いつもの癖で「ただいま」と声をかけた。
返事はなかった。
がらんとした部屋には、自分の声だけが響いていた。
その夜、私は玄関の床に座り込み、靴箱の下に置き去りにされた彼の靴を、長いこと見つめていた。
青い靴だった。
靴底はもうすっかりすり減っていて、左足の靴紐には、彼が自分で結んだ固結びが残っていた。
私はその靴を靴箱にしまい、物置の一番高い棚に置いた。
それから立ち上がり、キッチンへ行って、自分のために一杯の麺を茹でた。
茹ですぎてふやけていたけれど、それでも全部食べた。
それ以来、家に帰って「ただいま」と言うことは二度となかった。
3年前のあの夜、浩人は私の向かいに座り、今まで一度も見たことのないほど冷たい表情で言った。
「思乃、もう飽きた」
とても短い言葉だった。
喧嘩もなかった。他の女の影もなかった。説明すらなかった。
私は彼に尋ねた。「本気なの?」
彼は言った。「俺はいつも本気だ」
私は10秒もの間、呆然としていた。
そして、言った。「分かった」
荷物をまとめ、東町のアパートを出た。
かかった時間は、たった2時間だった。
そもそも、最初にそこへ引っ越したときも、大した荷物は持っていなかったから。
私は泣くと思っていた。
けれど、最初から最後まで、一滴の涙もこぼれなかった。
泣きたくなかったわけじゃない。
泣くのが怖かったのだ。
一度泣いてしまったら、彼に「行かないで」と縋ってしまいそうだったから。
「着いたよ」
晴香が会社の前に車を止めた。
「今日は現場に行くんだっけ?」
「午後から」
「私もついていこうか?」
「ついてきてどうするの?晴香はうちの会社のUIデザイナーでしょ。コピーライティングチームじゃないんだから」
「休みを取ればいい」
「晴香」
「はいはい、分かった。行かない。でも約束して。帰ってきたら電話して。何時になってもいいから」
「うん」
私はドアを開け、数歩歩いてから振り返った。
「晴香」
「ん?」
「ありがとう」
彼女は呆れたように白目をむいた。
「何に対してよ。お礼なんていいから、さっさと新しい彼氏を作ってよ。そのほうが私に感謝するより一万倍いい」
私は小さく笑い、振り返ってビルの中へ入った。
勝雄はオフィスで私を待っていた。
「午後の現地調査、俺も一緒に行く。ちょうど向こうの環境も見ておきたい」
「大丈夫です。この程度のことなら私一人で行けます」
「蘇我さん」
彼は机の端にもたれ、両手をポケットに入れた。
「俺は君の上司だ。行くかどうかを決める権限くらいある」
「分かりました」
彼は私を一度見た。
何か言いたそうな顔をしていたが、結局、ただ頷いただけだった。
「午後2時。俺が車を出す」
私は自分のデスクに戻り、パソコンの画面をぼんやりと眺めていた。
そのとき、またスマホが震えた。
浩人からメッセージが届いた。
【午後、俺も現場にいる】
私はその一行を、長いこと見つめていた。
そして、最終的に2文字だけ返した。
【了解】
それからスマホを伏せ、目を閉じた。
ゆっくりと、3回深呼吸する。
晴香の言うとおりだった。
私は、まだ心の準備ができていない。
でも、この世界には、心の準備ができてから起こることなんて、最初からないのだ。
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