いばらの道を共に歩もう第1話
この話は約2332字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
もう3年だ。1095日も経った。
私は、時間こそが最も真面目な職人なのだと思っていた。
何の決着もつかないまま途切れてしまったあの過去も、痛くも痒くもない小さな砂粒へと、時間が少しずつ風化させ、やがて風に乗せて、街のネオンの中へと散らしてくれるのだと、そう思い込んでいた。
そして、何事も予定どおりにこなし、必死に仕事に打ち込んだ。
夜更けのたびに、もう傷は癒えたと思っていた自分に、「もう吹っ切れた」と言い聞かせた。
だが、この日、運命は何の前触れもなく網を引き寄せ、私が「穏やかな日々を取り戻した」と思い込んでいた平静を、跡形もなく打ち砕いた。
* * *
私・蘇我思乃(そが しの)は、もうずいぶん長いこと、会議中にぼんやりすることなどなかった。
でも、今日は無理だった。
なぜなら、私の向かいに座っているのが、陸川浩人(りくかわ ひろと)だから。
もう3年が経った。
彼は少し痩せている。以前よりも顎のラインがくっきりとしている。濃いグレーのスーツに身を包み、シャツの襟元のボタンは留めていなかった。
そして、テーブルの上のコピーに視線を向けたまま、私のことを一度も見なかった。
「蘇我さん、この企画の方向性についてはどう思う?」
神原勝雄(かんばら まさお)の声に、私は我に返った。
目の前に広げていたコピーに目を落とす。そこには、三日三晩ほとんど眠らずに書き上げたコピーが並んでいた。
「いいと思います。核となるコンセプトは『帰れない場所を故郷と呼ぶ』。クライアントの観光プロジェクトの方向性にも合っています」
勝雄は頷くと、向かい側へ顔を向けた。
「陸川社長、そちらから何かご意見はありますか?」
浩人がようやく顔を上げた。
彼の視線が長い会議テーブルを越え、まっすぐ私の顔に落ちてくる。
その瞬間、空気が急に薄くなったような気がした。
「コピーは悪くない」
その声は低く、よそよそしかった。
「でも、もう少し生々しさが欲しい。『帰れない』というコンセプトは、少しぬるすぎる。もっと、胸に刺さるようなインパクトが欲しい」
私は手にしたペンを強く握りしめた。
彼が話しているのは企画のことだ。
そう分かっているのに、なぜか別の何かを言われているような気がした。
会議が終わると、浅草晴香(あさくさ はるか)が給湯室で私を待ち伏せしていた。
「彼、戻ってきたんだね」
彼女は給水機にもたれ、腕を組んでいる。
「前から知ってた?」
「神原さんからクライアントの担当者が変わるって聞いたのは先週。誰になったかは聞かなかった」
「どうして聞かなかったの?」
「聞いたところで、どうなるの?」
晴香は数秒、私の顔をじっと見つめた。
それから、ため息をついた。
「思乃、手が震えてるよ」
私は自分の手を見下ろした。確かに、かすかに震えていた。
「大丈夫。低血糖だから」
私は両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「嘘をつくのだけは、3年経っても少しも上達しないね」
私は何も答えなかった。
そのとき、スマホが震えた。
クライアントとの連絡グループから届いた、仕事の連絡だった。
その連絡をしたのは浩人だった。
【明日、コピーライティングチームは現場を見に来てください。空間をより具体的に感じてもらいたいので。蘇我ディレクターは必ず来てください】
晴香が横から画面を覗き込み、息を呑んだ。
「わざとだよ」
「彼はクライアントだもの。担当者を指定する権限くらいあるでしょ」
「思乃」
「ん?」
「まだ彼のこと、好き?」
私はその問いには答えなかった。
ただ、カップを手に取り、自分のデスクへ戻った。
すると、パソコンを開き、現場の場所を調べ始めた。
地図が表示された瞬間、私は固まった。
その土地は、東町にあった。
3年前、私たちが借りていた部屋も、東町にあった。
私は地図を閉じ、眉間を揉んだ。
これは、偶然なのだろうか。
退勤する頃には、もう空は暗くなっていた。
私はビルの入口に立ち、迎えに来る晴香を待っていた。
スマホを手にしたまま、画面にはまだ浩人からのメッセージが表示されていた。
東から吹いてきた風に、かすかなキンモクセイの香りが混じっていた。
この街には、たくさんのキンモクセイの木が植えられている。
毎年秋になると、どこへ行っても、この甘ったるい香りが漂ってくる。
昔、浩人はキンモクセイが嫌いだった。
甘すぎる、と言っていた。
まるで鼻の奥にシロップを流し込まれているみたいだ、と。
私は言った。
「分かってないね。これが秋の匂いなんだよ」
すると彼は、「秋の匂いっていうのは、枯れ葉と冷たい風だろ。こんなむせ返るような甘さじゃない」と言った。
3年経っても、キンモクセイの香りは何ひとつ変わっていなかった。
晴香の車が目の前に止まったとき、私はまだ我に返っていなかった。
「乗って」
彼女がクラクションを一度鳴らした。
「ここで10分もぼーっとしてたよ。通行人まで避けて通るようになってた」
私はドアを開けて乗り込んだ。
シートベルトを締める間もなく、彼女はアクセルを踏んだ。
「何食べに行く?」
「何でもいい」
「毎回『何でもいい』って言うくせに、結局私が選んだ店に文句言うじゃん」
「じゃあ、家に帰ってカップ麺でいい」
晴香はちらりと私を見たが、何も言わなかった。
家に着いてから、私は一晩中ソファに丸くなっていた。
冷蔵庫には昨日の残りの牛乳が半パックだけあった。
それを温め、両手で包むように持ちながら、ゆっくり飲んだ。
スマホの画面が暗くなっては、また明るくなる。
明るくなっては、また暗くなる。
彼からのメッセージは、来なかった。
私はスマホを枕の下に放り込み、明かりを消した。
暗闇の中、目を開けたまま、窓の外を時折走り抜けていく車の音を聞いていた。
頭の中で、「東町」という言葉が何度も何度も巡っていた。
これは、きっと偶然だ。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)