いばらの道を共に歩もう第3話
この話は約2075字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
東町の工事現場は、古びた住宅街の外れにあった。
車のドアを開けた瞬間、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
プラタナスの木と土が混ざり合った、あの匂いだ。
3年前の夏、私は毎晩この匂いを嗅ぎながら、歩いて家に帰っていた。
勝雄が私の前を歩き、浩人と握手を交わして挨拶をしている。
私は二人から2メートルほど離れたところに立ち、浩人が指で遠くの建物の輪郭を示しながら、プロジェクト全体の計画について説明するのを見ていた。
午後の日差しが彼の横顔を照らし、柔らかな輪郭を浮かび上がらせている。
それが、記憶の中のある夕暮れと重なった。
「蘇我さん?」
私は我に返った。
「すみません。今、何て言いました?」
浩人が私を見ると、その目がほんのわずかに揺れた。
「ここには昔、大きなプラタナスの木があったんだ」
彼は工事現場の中央を指差した。
「設計の段階で、残すつもりだった」
私は彼の指先を追って視線を向けた。
あのプラタナスは、まだそこにあった。
太い幹には、歪んだ二つのアルファベットが刻まれている――SとHだ。
Sは思乃の「し」で、Hは浩人の「ひ」だ。
私の呼吸が、一瞬止まった。
「この木、何か思い出がある?」勝雄が何気なく尋ねた。
「いや。昔、この辺りに住んでいた住民が刻んだんだ」
浩人は嘘をついていた。
あれは私が刻んだものだった。
引っ越して2ヶ月目、彼が残業している隙に、私はこっそり外へ出て、木に二人のイニシャルを刻んだ。
翌日、それを見つけた彼は、公共物を壊したとか何とか言って、30分も私を叱った。
そのくせ、その後何も言わずに二つの南京錠を買ってきて、私たちの名前を書いた札と一緒に木の枝に掛けた。
南京錠はまだ残っている。
けれど、もう錆びついていた。
「行こう」
浩人が振り返った。
「中に、まだいくつか重要なポイントがある」
それからの1時間、彼は私たちを連れて工事現場を隅々まで歩いた。
説明は専門的で、話す速さも速すぎず遅すぎない。
時折立ち止まっては、施工業者と細かな部分を確認している。
私はノートを手に、彼が話すときの唇の動きではなく、その内容にできるだけ集中しようとした。
「この角のスペースなんだけど」
まだ壁のない曲がり角で、彼が足を止めた。
「ここにセミオープン型の読書スペースを作ろうと思ってる。コピーはどう合わせられる?」
「『街の片隅』シリーズにできます。街の中にある、誰も知らないような場所を一冊につき一つ取り上げて、その場所を見つけた読者なら、本を無料で借りられる仕組みにします」
彼は私を一度見て、口元がほんのわずかに動いた。
昔、彼が笑う前によくしていた仕草だった。
けれど、その笑みが目元まで届くことはなく、すぐに消えた。
「いいね。その方向で進めよう」
帰り道、勝雄が運転し、私は助手席に座っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、勝雄が口を開いた。「蘇我さん、浩人と昔から知り合いなのか?」
私の心臓が、半拍だけ速くなった。
「どうして分かったんですか?」
「彼が君を見る目だよ」勝雄は前方の道路を見つめたまま言った。「普通の取引先を見る目じゃなかった」
私は数秒黙った。
「大学の同級生です。ずっと昔のことですから」
「そうか」
勝雄はそれ以上、何も聞かなかった。
「もしこのプロジェクトで君がやりづらいなら、担当を変えてもいい」
「大丈夫です」
「本当か」
「神原さん、本当に大丈夫です。仕事は仕事ですから」
彼は頷き、それ以上何も言わなかった。
会社に戻ると、私はまっすぐトイレへ向かい、蛇口をひねって冷たい水で顔を洗った。
鏡に映った自分の目尻は、ほんのり赤くなっていた。
私は深く息を吸い、ポケットからスマホを取り出した。
浩人からのメッセージだ。
【あの木、切らなかった】
私は画面を見つめた。
指はキーボードの上に浮かんだまま、いつまで経っても1文字も打てなかった。
また、浩人のメッセージが届いた。
【南京錠も、まだある】
私はスマホを裏返し、目を強く閉じた。
窓の外では、雨が降り始めていた。
秋の雨がガラスを叩き、細かく、密やかな音を立てている。
私は、東町のあのアパートに引っ越した初日のことを思い出した。
あの日も、今日とよく似た雨が降っていた。
私は二つのスーツケースを引きながら、玄関の前に立っていた。
浩人が中からドアを開け、私の荷物を受け取ると、こう言った。「これからここが君の家だ」
「私たちの家」ではなく、「君の家」だった。
まるで彼は、最初から、この家がいつか私だけのものになると知っていたかのようだった。
あの夜、彼はテーブルいっぱいに料理を並べた。
味はどれもまちまちだったけれど、一品一品、全部私の好きなものだった。
「いつの間に料理なんて覚えたの?」
私が聞くと、彼は答えた。
「グーグルで」
「グーグルで、酢豚をこんな味にする方法まで教えてくれるの?」
私が笑いながら言うと、彼はいたって真面目な顔で答えた。
「グーグルには、酢豚のポイントは砂糖を入れるタイミングだって書いてあった」
私はあのとき、ずっと笑っていた。
今になって思えば、あの笑い声はまるで一世紀も昔のことのようだった。
浩人は、いったい何をしたいの?
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