あの日、海に捨てた恋第2話
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その夜、私は智則の車には乗らず、タクシーを拾ってマンションへ帰った。
運転手はバックミラー越しに、何度も私の様子を窺っていた。深夜、ずぶ濡れのままバスタオルにくるまった女が、ヨットハーバーからタクシーに乗り込んでくるなど、見たことがなかったのだろう。
私は小さな声で頼んだ。「すみません、少し急いでもらえますか」
マンションに戻ると、リビングにはまだ明かりがついていた。
ローテーブルの上には、午後に私が手作りしたケーキが置かれていた。
交際3周年を祝うために、半月も前から練習を重ねてきたものだった。
クリームの塗り方は決して上手とは言えなかったけれど、真ん中にはチョコレートソースで智則の名前を書いていた。
けれど今はクリームが崩れ、文字も滲んでぐちゃぐちゃになっている。
まるで笑い話だ。
私はケーキをゴミ箱に捨て、振り返った途端、目の前が真っ暗になった。
次に目を覚ましたときには、すでに夜が明けていた。
額は驚くほど熱く、ふくらはぎの傷もひどく腫れ上がっていた。傷口の周囲は海水に浸かったせいで白くふやけている。
私は手探りでスマホを取り、智則に電話をかけた。
一度目は、応答なし。
二度目は、途中で切られた。
三度目にして、ようやく彼が電話に出た。低い声が耳に届く。「今度は何だ?」
私は唇を噛み締め、ほとんど聞き取れないほどかすれた声で答えた。「熱が出たの。足の傷も、ひどく腫れている……」
電話の向こうで、彼が一瞬黙り込んだ。
すると、芙美乃の小さな声が聞こえてきた。「智則、依緒さんから?あまり怒らないであげて。あの人も昨日はつらい思いをしたんだから」
智則の声が少し遠ざかった。どうやら彼女のほうを向いて、宥めているらしい。「じっとしてて。まだ点滴が終わってないだろ」
そして再び私に話しかけてきたとき、彼はこう言った。「今は手が離せない。運転手に病院まで送らせる」
私は呆然とした。「病院にいるの?」
「昨日のことで芙美乃がショックを受けて、動悸が出たんだ」
彼はそれが当然であるかのように続けた。「とりあえず自分で受付を済ませてくれ。ただの熱だろ。いちいち大騒ぎするな」
私は鏡に映る、血の気を失った自分の顔を見つめながら、思わず笑いそうになった。
芙美乃が怖い思いをしたからと、彼は一晩中病院で付き添っていた。
一方、私は海に飛び込み、傷口までひどく腫れ、立っているのもやっとなほどの高熱を出しているというのに、彼にとっては「ただの熱」でしかないのだ。
私は一人で病院へ向かった。
受付を済ませ、順番を待ち、採血を受け、傷口の洗浄と処置をしてもらった。
医師が傷口を処置している間、全身が震えるほど痛かったが、それでも私は一度も声を上げなかった。
智則は昔から、私のことを我慢強い女だと言っていたから。
点滴が半分ほど終わった頃、廊下の突き当たりに彼の姿が見えた。
智則は芙美乃を抱きかかえていた。
彼女の手の甲には止血用の綿がテープで留められており、顔を彼の肩に埋めながら、小さな声で甘えている。「注射、すごく痛かった……」
智則は彼女を見下ろし、優しく宥めた。「甘えん坊だな」
その口調には、甘やかすような優しさが溢れていた。
芙美乃は私の姿に気づくと、一瞬驚いたように目を見開いた。「依緒さん?依緒さんもここにいたの?」
智則も彼女の視線を追って、こちらを振り向いた。
彼は私の青白い顔にも、手の甲に刺さった点滴の針にも気づいたはずなのに、ただ眉をひそめただけだった。「どうして病室で休んでないんだ?」
私は小さな声で答えた。「病室じゃないわ。処置室で点滴してるだけだから」
智則は一瞬黙り込んだ。
すると、芙美乃がすぐに彼の腕の中から顔を上げた。「智則、私の病室を譲ってあげたらどうかな?」
その言葉は優しく、思いやりに満ちているように聞こえた。
けれど、彼の服を掴む手の力は、少しも緩んでいなかった。
案の定、智則は低い声で答えた。「その必要はないよ。君は体が弱いんだから、無理しなくていい」
そして私に視線を向けた。
「点滴が終わったら、自分で帰ってくれ。今日は芙美乃の具合が悪いから、俺が付き添ってやらないと。
依緒、こんなときにまで張り合おうとするな」
彼の言葉は一つひとつが細い針のように、ゆっくりと私の胸に突き刺さっていった。
その瞬間、心の奥で何かが、かすかな音を立ててひび割れるのを感じた。
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