あの日、海に捨てた恋第1話
この話は約2597字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
鷹司智則(たかつかさ とものり)は、妻になる女性に一つの条件を課していた。まずは彼の仲間たちに認められなければならない、というものだ。
交際3周年を祝うヨットパーティーで、私は負けるたびに服を一枚脱がされるポーカーゲームに無理やり参加させられた。
とうとう上半身は薄いキャミソール一枚だけになり、彼の仲間たちはそんな私を舐め回すような目で眺めていた。
「鷹司さん、水城さんの腰、ずいぶん柔らかそうっすね。普段からいろんな体位を試してるんじゃないですか?」
「肌もほんのりピンク色で、たまんねえな。あと一回負けたら、下に着てるやつまで脱いで見せてくれるんだろ?」
私は服の裾を必死に握り締め、屈辱に全身を震わせながら、助けを求めるように上座に座る智則を見つめた。
しかし、彼はちょうど魚の小骨を丁寧に取り除き、ほぐした身を隣に座る藤江芙美乃(ふじえ ふみの)の口元へ運んでいるところだった。
周囲の冷やかしが耳に入ると、彼は小さく笑い、ゆっくりと顔を上げた。
「賭けに負けたんだから、潔く脱げよ。何を隠してるんだ?普段、俺のベッドの上じゃあんなに大胆なくせに。
芙美乃はこういうのに慣れてないんだ。あまり怖がらせるなよ。遊びたいなら、そいつで好きに遊べばいい」
私は氷水の中に突き落とされたような気分だった。
皆がどっと笑い声を上げる中、まるでお姫様のように大切に扱われている芙美乃を見つめていると、心臓を容赦なく踏みにじられたような痛みが走った。
愛されているかどうかで、身にまとうことを許される服の枚数さえ、こんなにも違うのだ。
私は最後に残された、尊厳そのものともいえる一枚を脱ぎ捨て、テーブルの上に放り投げた。
そして、彼らの目の前で、一瞬のためらいもなく、暗く冷たい海へと身を投げた。
* * *
海水が耳に流れ込んだ瞬間、世界は完全に静まり返った。
ヨットの上から聞こえていた笑い声も、冷やかす声も、智則の気のない声も、すべて冷たい海水に遮られた。
私は泳げない。
それなのに、海へ飛び込んだ瞬間、不思議と後悔はなかった。
胸が押し潰されるように痛み、四方八方から暗闇が押し寄せてくる。
私は本能的にもがき、必死に腕を動かしたが、指先は何も掴めず、ただ虚しく水をかくばかりだった。
やがて、誰かが浮き輪を投げ込んできた。
巡視艇の乗員に引き上げられたとき、私は全身を震わせていた。
薄いキャミソールが肌にぴったりと張りつき、まるで剥がせない皮膚のように冷たく濡れていた。
ふくらはぎには船べりで擦った長い傷ができ、傷口に海水がしみて、目の前が真っ暗になるほど痛んだ。
ようやく智則がヨットから降りてきた。
一歩ずつ近づいてくる彼を見つめながら、私は愚かにも、かすかな期待を抱いてしまった。
たった一言でもいい。
痛くないか、寒くないかと聞いてくれるだけでよかった。
しかし、彼は私の前を素通りすると、真っ先に自分の上着を芙美乃の肩にかけた。
芙美乃は彼の隣に立ち、少し青ざめた顔で小さく口を開いた。「智則、私、何か悪いことしちゃったのかな?あの人が海に飛び込んだとき、本当に怖かったの」
智則は芙美乃にかけた上着のボタンを丁寧に留めながら、優しいとさえ思えるほど穏やかな声で答えた。「君のせいじゃないよ」
そう言ってから、彼はようやく私に目を向けた。
その眼差しに心配の色など微塵もなく、ただ楽しい気分を台無しにされた苛立ちだけが滲んでいた。「水城依緒(みずき いお)、もう気は済んだか?」
海水でむせたせいで喉がひどく痛み、私は声を出すことさえできなかった。
彼は二歩ほど近づくと、ずぶ濡れで惨めな姿の私を見て眉をひそめた。「これだけ大勢が見てる前で海に飛び込んで、いったい誰に何を見せつけたかったんだ?」
私はゆっくりと指先に力を込め、体にかけられた保温シートを握り締めた。
彼の目には、私が屈辱に耐えきれず、逃げ場を失って海へ飛び込んだようには映っていないのだ。
ただ駄々をこねているだけ。
わざと彼に恥をかかせようとしているだけなのだ。
彼の後ろでは、仲間たちも次々とヨットから降りてきて、そのうちの一人が口笛を吹いた。
「水城さん、なかなか度胸あるじゃないっすか。本当に飛び込むとは思いませんでしたよ」
「鷹司さん、さすがに今回の婚約者テストはやりすぎだったんじゃないですか?」
智則は振り返りもせず、軽い口調で言い捨てた。「こいつは昔から甘やかされてるからな。少し頭を冷やせば目も覚めるだろ」
芙美乃がそっと彼の袖を引いた。「智則、あの人、服がびしょ濡れだよ。先に着替えさせてあげたほうがいいんじゃない?」
私は呆然と顔を上げた。
次の瞬間、智則は執事に命じた。「こいつにバスタオルを一枚持ってきてくれ」
ふと、2年前のことが脳裏に浮かんだ。
あのとき、智則は私を山頂へ日の出を見に連れていってくれた。
私がたった一度くしゃみをしただけで、彼は自分のコートを脱いで私をすっぽりと包み込み、自分はシャツ一枚のまま、一晩中冷たい風に吹かれていた。
あのとき、彼は私を抱き締めながら言ったのだ。「大切な依緒に、寒い思いなんかさせられないからな」
それなのに今、私は全身ずぶ濡れで、ふくらはぎから血を流しているというのに、彼が心配しているのは、芙美乃が海風に当たって寒い思いをすることだけだった。
私は俯いて、小さく笑った。
けれど、笑っているうちに涙が手の甲にぽたぽたと落ち、そこに残る海水と混じり合っていった。
智則もようやく何かに気づいたのか、少し声を和らげた。「もういい。今夜はこれで終わりだ。車に乗れ、送っていく」
私は顔を上げ、彼を見つめた。「智則、もしさっき、誰にも助けてもらえなかったら?」
彼は眉間にしわを寄せた。「縁起でもないことを言うな」
そう言って、以前のように、私の頭を撫でようと手を伸ばしてきた。
そのとき、まるでタイミングを見計らったかのように、芙美乃が軽く二度ほど咳き込んだ。
智則はすぐさま振り返った。「どうした?どこか具合が悪いのか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと寒いだけ」
彼はそれきり私を見ることもなく、芙美乃を支えながら車に乗り込んだ。
車のドアが閉まる直前、彼の声が聞こえてきた。「先に芙美乃を送っていこう。彼女は暗いところが怖いんだ」
そうか。
寒さが怖くても、暗闇が怖くても、痛い思いをするのが怖くても、彼はその人を腕の中に抱き寄せて守ってくれるのだ。
私以外なら、誰でも。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)