あの子の春も、私たちの八年目も来なかった第2話
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退院の日、直哉が迎えに来た。
私に上着を羽織らせ、かがんで靴まで履かせてくれた。
7年前、初めて久世家に来た私は、ブランド物の靴さえ履き慣れていなかった。
彼は玄関にしゃがんでストラップを留めながら、笑って言った。
「紗和ができなくても、俺ができればいいだろ。夫なんだから」
あの頃、久世家では誰も私を認めていなかった。
使用人たちは陰で私を「酒場上がりの女」と呼び、雅子は結婚式にさえ来なかった。
そんな私の手を取って広間へ連れていき、皆の前で言ってくれたのは直哉だった。
「名家の生まれではなくても、俺が選んだ人だ」
その後、彼が久世グループの実権を握ろうと争っていた頃には、私も接待の席に付き合い、夜を徹して膨大な資料を整理した。
胃から出血して入院した彼に、三日三晩付き添ったのも私だ。
彼の地位がようやく固まってから、雅子も私を一人の人間として認めるようになった。
7年もあれば、私も久世家の一員になれる。そう思っていた。
けれど邸宅に戻ると、赤ちゃんの部屋にあったものが、すべてリビングに積み上げられていた。
雅子はソファに座り、冷たく言い放った。
「もういないのだから、片づけなさい。見ていると気が滅入るわ」
私はいちばん上にあった小さな木馬を手に取った。
直哉が自分で組み立てたものだ。
ねじが一本余ってしまい、どこにつけるのかと明け方まで悩んでいた。私が手伝おうとしても、断られた。
「いつかこの子に聞かれたら、パパが作ったんだって言うんだ」
その木馬は今、脚が一本取れたまま、無造作に段ボール箱へ押し込まれていた。
雅子の隣には玲奈が座っていた。まだ目が赤い。
私を見ると、すぐに立ち上がった。
「紗和さん、ごめんなさい。
こんなことになると分かっていたら、直哉に先に助けてもらったりしなかったのに」
直哉が彼女を支えた。
「足が治ってないんだから、座ってろ」
それからようやく、私のほうを向いた。
「子どものものなら、また買えばいい」
また。
また妊娠できる可能性は極めて低いと、医師は彼にも告げたはずなのに。
思い出すのが怖いのか。それとも、口にしなければなかったことにできると思っているのか。
雅子が一枚の声明文をテーブルに差し出した。
「直哉が妊娠中の妻を置き去りにして昔の恋人を助けたって、玲奈さんが世間から責められているの。
ここに署名して。あなたが、先に玲奈さんを助けるよう言ったことにするから」
私はそこに並ぶ数行を見つめた。
あのとき直哉は、私なら一人で歩けると思っていた。
私の言葉を待つこともなく、そう決めつけた。
「紗和に言われて助けたわけじゃない」
不意に直哉が口を開いた。
私の指が震えた。
だが、続く言葉を聞いて、その期待は消えた。
「そこは、紗和のほうが出口に近く、一人で避難できると判断した、と直してくれ」
秘書がすぐにうなずいた。
「それでしたら事実に沿っていますし、奥様に責任を負わせずに済みます」
事実。
言い方を変えれば、私と子どもを見捨てたことも、ただの判断ミスになるらしい。
玲奈はうつむき、手の甲に涙を落とした。
「もういいの。紗和さんを困らせないで。
少しくらい悪く言われても、別にどうってことないもの」
雅子はすぐに彼女を抱き寄せた。
「あなたは優しすぎるのよ。だから、いつもつらい思いをするの」
直哉が私を見て、声を和らげた。
「紗和、玲奈は帰国したばかりだし、倉橋家はうちの大事な取引先でもある。
この声明文は、ひとまず騒ぎを収めるためなんだ」
彼がこんなふうに、辛抱強く誰かを説得することはめったにない。
7年前、古参の役員たちに私と別れろと迫られたときには、会議のテーブルに辞表をたたきつけた人だ。
「久世グループが俺の妻を受け入れられないなら、俺もここにいる必要はない」
あの頃は、私のためなら何もかも捨ててくれた。
今はもう、すべてを手に入れている。
だから譲るのは、私でいいのだろう。
私はペンを受け取り、署名した。
ようやく直哉の眉間が緩んだ。
彼は身をかがめ、私を軽く抱き締めた。
「つらい思いをさせたな」
玲奈も近づいてきた。
すれ違いざま、私にだけ聞こえる声でささやいた。
「ほら。やっぱり、選ばれるのは私なの」
私は振り返らなかった。
ただ、あのブラックカードをミズキに預けた。
そして木馬を箱にしまった。
直哉が尋ねた。
「使用人にやらせればいいのに」
私は木馬についたほこりを、そっと拭き取った。
「あの子のものだから、自分で片づけておきたいの」
彼の目に、一瞬だけ後ろめたさが浮かんだ。
けれど気づかなかった。箱の中には子どもの形見だけでなく、彼が初めてくれた宝石も入っていることに。
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