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あの子の春も、私たちの八年目も来なかった第1話

この話は約2511字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

京和市の名家の御曹司、久世直哉(くぜ なおや)は、忘れられない昔の恋人とけんか別れした夜、高級会員制クラブで酒を運んでいた私に、気まぐれに声をかけた。

彼は私、森川紗和(もりかわ さわ)に、豪邸も宝石も、利用限度額のないブラックカードも与えてくれた。

母の治療費さえ払えなかった貧しい娘が、誰もがうらやむ久世夫人になったのだ。

彼が私と結婚したのは、目元が少しだけ昔の恋人に似ていたからだと、誰もが言った。

初めは私も、ただ恩を返せればそれでいいと思っていた。

けれど7年の間に、人付き合いも家を切り盛りすることも覚え、彼が経営の実権を握るまでの苦しい日々を支えるうち、いつしか心まで預けていた。

やがて昔の恋人が帰国した。それでも彼は私と離婚しなかった。

彼女は久世グループで彼の片腕となり、私は久世家に残って、妻として暮らし続けた。

彼女のために結婚記念日の予定を後回しにする一方で、私が理不尽な扱いを受ければ、彼は自ら駆けつけてかばってくれた。

だから信じていた。夫婦として過ごした7年は、若い頃の恋に勝るのだと。

7度目の結婚記念日の夜、ホテルが火に包まれるまでは。

直哉は軽いけがをしただけの彼女を抱き上げ、身ごもっていた私を煙の中に残していった。

目を覚ましたとき、赤ちゃんはもういなかった。

医師には、再び妊娠できる可能性は極めて低いと告げられた。

今さら目を赤くしている彼を見て、この7年がひどくばかばかしく思えた。

どん底にいた私を救ってくれた人が、今度は自分の手で私を炎の中に置き去りにした。

子どもは、もういない。恩だって、十分に返した。

私は結婚指輪を外し、離婚協議書に署名して、誰にも告げず京和市を去った。

直哉の妻は、あの火事で死んだのだ。

生き残った私は、もう彼とは関係ない。

* * *

赤ちゃんは助からなかった。

医師にそう告げられたとき、私のベッドの脇には、直哉が立っていた。

スーツにはまだ焦げたにおいが染みつき、右手の甲にはガーゼが巻かれている。

昨夜、あの手は倉橋玲奈(くらはし れな)をしっかりと抱いていた。

医師は検査結果の用紙をめくり、声を落とした。

「奥様のけがは軽くありません。今後、妊娠できる可能性は……極めて低いでしょう」

直哉の喉がかすかに動いた。

「極めて低いというのは、どのくらいなんですか?」

医師は答えなかった。

病室が静まり返る。

私は天井を見つめた。昨夜の炎が、また目の前によみがえった。

休憩室に煙が流れ込んできたとき、直哉はドアを蹴り開けて飛び込んできた。

玲奈は壁際に座り込み、足首が赤く腫れていた。

私はテーブルの縁につかまり、もう片方の手で必死にお腹を守っていた。

「直哉……」

玲奈が声を上げるなり、彼は駆け寄って彼女を抱き上げた。

ドアに近いのは、私のほうだった。

あと数歩で廊下に出られる。

直哉は私を一度だけ見た。

「紗和、先に非常口へ向かってくれ。

玲奈は足をけがしてる。外に連れていったら、すぐ迎えに戻るから」

私が妊娠していることを、彼は知っていた。

1週間前には、妊婦健診にも付き添ってくれたばかりだ。

医師は、赤ちゃんはぶどうの実くらいの大きさだと言った。

帰り道、直哉はぶどうを箱で買い、「ぶどうちゃんにも、たくさん食べさせてやらないとな」と笑った。

だから私は、「すぐ戻る」という言葉を信じた。

けれど2歩進んだところで、頭上にすさまじい音が響いた。

天井が崩れ落ち、私はその下敷きになった。

濃い煙の中、床に倒れたまま、何度も彼の名を呼んだ。

次に目を覚ましたとき、赤ちゃんはもういなかった。

直哉がベッドの端に座り、私の手を握った。

「ごめん」

一睡もしていないのか、目が真っ赤だった。

「一人で出られると思ったんだ。

玲奈を医師に任せて、すぐ引き返した。でも消防隊員に止められて、中に入れなかった」

私は小さな声で尋ねた。

「もう一度同じことが起きたら?」

私の手を握る指に、急に力がこもった。

長い沈黙のあと、彼はかすれた声で言った。

「二度と、あんなことは起こさせない」

答えにはなっていなかった。

それでも、もう分かってしまった。

直哉の携帯電話が鳴った。

彼は画面に出た名前を見て、出なかった。

2度目の着信があると、そのまま電源を切った。

「どこにも行かない。ここにいるから」

かつては、その言葉を何よりも聞きたかった。

結婚する前、母が手術を受けることになり、私は一人、会計窓口の前にしゃがみ込んで泣いていた。

直哉は私の代わりに740万円を払い、一晩中そばにいてくれた。

夜が明けると、ホットミルクを手渡してくれた。

「俺がいる。何があっても大丈夫だ」

あの頃の私にとって、彼は何があっても頼れる人だった。

けれど本当にすべてが崩れ落ちたとき。

彼が真っ先に守ったのは、私ではなかった。

突然、病室のドアが開いた。

直哉の母、久世雅子(くぜ まさこ)が険しい顔で入ってきた。

「直哉、玲奈さんがずっと泣いているの。

あの子、もともと火が怖いのよ。昔の交通事故だって、まだ心の傷になっているのに。一人にしておくなんて」

直哉は眉を寄せた。

「紗和は手術を受けたばかりだ」

「ここには看護師も医師もいるでしょう。何の心配があるの?」

雅子はちらりと私を見た。

「玲奈さんは違うわ。あなたを助けようと帰国しなければ、こんな火事に遭うこともなかったのに」

直哉はしばらく黙ったあと、立ち上がった。

そっと私の布団を掛け直す。

「少し様子を見てくる。すぐ戻るから」

私はうなずいた。

「うん」

彼はほっとした様子で、アシスタントの相原(あいはら)アキの名を口にした。

「食べたいものがあったら、アキに買ってこさせるから」

ドアが閉まってから、私はあのときの医療費の領収書を思い出した。

740万円。

黄ばんだ領収書は今も家の金庫にしまってある。そこに記された金額は、はっきりと心に刻まれていた。

弁護士の大庭(おおば)ミズキに電話をかけた。

「これまで直哉から受け取った不動産と株、それに宝石を、全部でいくらになるか調べていただけますか」

ミズキは少し戸惑ったようだった。

「奥様、資産の整理をお考えですか?」

私はもう赤ちゃんのいないお腹に触れた。

「ええ。ずいぶん長いこと借りたままでしたから。そろそろ返さないと」

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