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あの子の春も、私たちの八年目も来なかった第3話

この話は約2392字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。

声明文が出ると、誰もが直哉の判断の速さを褒めた。

私のことまで、さすが久世夫人、よく物事をわきまえていると持ち上げる人もいた。

雅子はうわさを収めるため、親族を集めた食事会を開いた。

わざわざ私に念を押すことも忘れなかった。

「今夜は親戚の年配の方々もいらっしゃるの。不機嫌な顔をしないでちょうだい。

玲奈さんは怖い思いをしたばかりよ。多少おかしなことを言っても、大目に見てあげなさい」

私はうなずいた。

「分かりました」

直哉は私のために、ゆったりしたロングドレスを選んだ。

「まだ体が回復していないんだから、顔を出したら先に帰っていいからな」

そう言って宝石箱から真珠のブローチを取り出し、胸元に留めてくれた。

結婚して最初の年、誕生日にもらったものだった。

あの頃、久世グループは資金繰りに行き詰まり、彼は自分の車まで売っていた。

何もいらないと、私は言った。

それでも彼は、腕時計を売ったお金でこのブローチを買ってきた。

「ほかの人が持っているものを、俺の妻だけが持っていないなんて嫌なんだ」

私は真珠に触れた。

ブローチは今も、ここにある。

けれど私をいちばんに考えてくれた人は、もうどこかへ行ってしまったようだった。

久世家の屋敷に着くと、玲奈が直哉の祖母、久世静江(くぜ しずえ)の話し相手をしていた。

その手首には、久世家に伝わる翡翠のバングルがあった。

私が嫁いできた年、静江は、久世家の長男の嫁に譲るものだと言っていた。

私は7年も結婚指輪をはめていたのに、そのバングルには触れたことさえなかった。

雅子が笑って説明した。

「玲奈さんの今日の装いによく合うから、ちょっと貸してあげたのよ」

玲奈が手を上げた。

「紗和さん、気にしてないよね?」

私は首を振った。

「気にしてない」

彼女の笑みが、いっそう柔らかくなった。

「そうだよね。今まで一度もつけたことがないもの。好みじゃないんでしょうね」

直哉は少し眉を寄せたが、口にしたのは一言だけだった。

「食事にしよう」

食事の席で、静江が市西部の事業について尋ねた。

彼がいちばん苦しかった頃、私も半年間支え続けて、ようやく手に入れた仕事だった。

ある古参の取締役を説得するため、雪の中で4時間待ち、帰宅してから高熱を出したこともある。

直哉は私を抱き締め、何度も言った。

「紗和、俺の立場が固まったら、もう誰にも頭を下げさせない」

けれど今、その事業の新しい責任者は玲奈だった。

私が彼と一緒に築いたものについて、彼女は彼の隣で、よどみなく説明していた。

親族たちは口々に褒めた。

「やはり玲奈さんは頼りになるね」

「家柄といい、見識といい、直哉にぴったりだ」

雅子が淡々と付け加えた。

「あとからいくら努力したって、身につかないものもあるのよ」

テーブルの下で、直哉が私の手を軽く握った。

家族に嫌なことを言われるたび、昔からしてくれた仕草だった。

胸がわずかに締めつけられた、そのとき、玲奈が声を上げた。

「バングルにひびが入ってる!」

翡翠に細い亀裂が走っていた。そのひびのせいか、彼女の手首には一筋の傷ができていた。

彼女は慌てた様子で私を見た。

「紗和さん、さっき私の手を引いたとき……」

一斉に視線が集まった。

雅子が勢いよく箸を置いた。

「玲奈さんに貸したのが気に入らないからって、壊していいわけがないでしょう!」

「バングルには触っていません」

「あなた以外に、誰がいるの?」

玲奈が急いで取りなした。

「雅子さん、怒らないでください。紗和さんは赤ちゃんを亡くしたばかりなんですから。気持ちが不安定でも仕方ないと思います」

かばっているように聞こえる、その一言。

けれどそれは、私が嫉妬して彼女を傷つけたと認める言葉でもあった。

私は直哉を見た。

彼は疲れたように眉をひそめた。

「紗和、まずおばあ様に謝ってくれ」

「私じゃない」

「玲奈が自分の手首を傷つけてまで、そんなことをする理由はないだろ」

ふと、昔のことを思い出した。

クラブの客に、腕時計を盗んだと決めつけられたことがあった。

皆が私の体を調べようとした。

直哉は私を背にかばい、6時間分の防犯カメラの映像を取り寄せた。

最後には、その客に土下座して謝らせた。

そしてこう言ったのだ。

「俺のそばにいる紗和を、根拠もなく泥棒扱いさせるわけにはいかない」

なのに今は、調べようとさえしない。

彼にとっては、玲奈も疑われるべきではない人なのだろう。

私はもう、疑われ慣れているから。

雅子が冷たい声で急かした。

「いつまでそうしているつもり?」

私は直哉を見つめた。

彼は目をそらさなかった。けれど私の側に立ってもくれなかった。

私はゆっくり立ち上がり、静江に頭を下げた。

「お食事の席を騒がせてしまって、申し訳ありません」

直哉の表情が和らいだ。

「紗和はちゃんと分かっている。もう、この話は終わりにしよう」

彼は玲奈に付き添い、手首の切り傷を手当てしに行った。

私が立ち上がったとき、ドレスの裾に暗い赤がにじんでいたことには、気づかなかった。

帰りの車が途中まで来たところで、下腹部に激痛が走った。

私は体を折り、冷や汗に震えた。

バックミラーで私の顔色を見た運転手が慌てて進路を変え、病院へ運んでくれた。

止血の処置をしながら、医師は厳しい声で言った。

「手術を受けたばかりで長く立っていたんですか。もっとご自分の体を大事にしてください」

私はベッドに横たわり、痛みで声も出せなかった。

直哉からは、アキを通して一言だけ伝えられた。

玲奈の傷が感染を起こしたので、今夜はこちらには来られない、と。

窓の外の明かりが、ひとつずつ消えていく。

私はミズキから届いた離婚協議書を開き、最後のページに署名した。

出ていく日は、7日後に決めた。

母の命日だった。

あの頃、直哉が払ってくれた740万円で、母は半年だけ長く生きられた。

私は彼のいちばん苦しい7年を支え、ついには、あの炎の中で子どもまで失った。

もう、十分に恩は返したはずだった。

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