あなたに捧げた五年の春を、私は取り戻す第3話
この話は約1873字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
「瑶子、入れてくれ」
翌日の夕方、悠真は瑶子の家の玄関先に立っていた。手には白い紙袋を提げている。
瑶子がドアの前に立ちはだかった。
「杏奈は会いたくないって言ってる」
「怒ってるのは分かってる」
彼は軽く笑った。
「少しだけ話させてくれ。話したらすぐ帰る」
「何を話すの?SNSの投稿に杏奈の名前ひとつ出さなかった言い訳?」
悠真の笑みが、一瞬だけ止まった。
「瑶子。これは俺と杏ちゃんの問題だ」
「もう杏ちゃんなんて呼ばないで。なれなれしすぎ」
私は玄関まで歩いていき、瑶子の腕をそっと下ろさせた。
「瑶子、入れてあげて。ちゃんと面と向かって話すから」
瑶子は脇へ退いた。けれど冷たい目で、悠真を上から下まで見据えていた。
彼は靴を脱いで上がると、その紙袋をテーブルの上に置いた。
中身はケーキだった。
「君の好きなマロンケーキ。昨日、渡せなかったから」
私は箱を開けなかった。
彼は向かい側に腰を下ろした。
「杏ちゃん、俺にどうしてほしいんだ?」
「言ったでしょう。別れたいの」
彼は眉をひそめた。
「ドレス一着のことで、別れるっていうのか?」
「ドレスだけの話じゃない」
「じゃあ、何なんだ?」
彼は両手を組んでテーブルの上に置いた。
昔、私が機嫌を損ねるたびに見せていたのと、まったく同じ姿勢だった。
付き合ってやっている。
辛抱強く、私が言い終えるのを待ってやっている。
そんな態度だった。
「去年のあなたの誕生日、私は二か月も前からレストランを予約していた。なのに出かける直前、莉央からお腹の具合が悪いって電話が来て、あなたは先に車で彼女のところへ行った」
「莉央は一人だったんだ。万が一のことがあったらどうする?」
「行ってみたら、ただ食べすぎただけだった。それでもあなたは、そのまま彼女と一晩中テレビを見ていた。私は一人で、店が閉まるまでレストランで待っていたのに」
彼は一瞬、言葉に詰まった。
「あのときは謝っただろ?ネックレスも買った」
「莉央にも同じものを買ったでしょう」
「莉央はあのとき、ちょうど落ち込んでいて……」
「莉央って、いつもそうじゃない」
私の声は低かった。けれど、不思議なくらい揺れなかった。
「落ち込んでいない莉央を、私は見たことがないわ」
悠真は黙った。
「先月の出張のとき、あなたは私に一人でタクシーに乗って空港へ行けと言った。莉央を大学まで送っていくからって」
彼は口を開きかけた。
「莉央は荷物が多くて……」
「家にあった肌掛けも莉央にあげた。あれは、母が実家から送ってくれたものだった」
「あれはもう古かっただろ。新しいのを買ってやる」
「あれは私のものよ。母が老眼鏡をかけて、一週間かけて刺繍してくれたの。送るときだって、途中で縫い目が潰れないようにって、三重に包んでくれていた」
部屋の中が静まり返った。
瑶子はキッチンの入り口に立ったまま、指の関節が白くなるほど拳を握りしめていた。
私は泣かなかった。
昔の私なら、泣いていた。
目を赤くして、どうして、と彼に問い詰めていた。
そして彼の「悪かった」という一言で、また許すことを選んでいた。
でも今回は、ただ疲れていた。
「杏奈」
悠真の声が低くなった。
そこには、かすかな失望が滲んでいた。
「俺はずっと、君はほかの女とは違うと思ってた」
「ほかの女?」
「細かいことにいちいちこだわるような女たちだよ」
彼は眉を寄せ、真剣な目で私を見た。
「君なら分かってくれると思ってた。莉央には頼れる人がいない。でも君には俺がいるし、家族もいる。足りないものなんて何もないだろ。俺が莉央を少し多めに気にかけたからって、それの何が悪いんだ?」
彼は本気でそう言っていた。
一つひとつの言葉が、心からのものだった。
「君は何でも持ってるんだから、何も持っていない莉央に少しくらい譲ってやれないのか?」
私は彼を見た。
長いこと、見つめていた。
彼の目には、期待すら浮かんでいた。
これまでのように私が頷いて、分かった、と言うのを待っている目だった。
けれど、私が持っているものの中には、悠真自身もいたはずだった。
その悠真が少しずつほかの人のほうへ心を移しておきながら、どうして足りないなんて思うのかと、私に問い返している。
「悠真、あなたの言うとおりよ。私は何でも持っている」
彼は、ほんの少し安心したように息をついた。
「だからあなたも、もう要らない」
彼の顔から笑みが消えた。
「杏奈。君は昔、こんな人じゃなかった」
私は答えなかった。
彼は立ち上がり、ドアを開けて出ていった。
私の視線は、テーブルの上のケーキに落ちた。
マロンケーキ。
彼はもう、覚えていない。
私の好きな味は、去年から変わっていた。
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