あなたが読まなかった一枚、それが別れ状第2話
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「玲奈は遅くまで残業してるんだ。家まで送ってやってるだけだろうが。それの何が問題なんだ?」
誠司の口ぶりは、どこまでももっともらしかった。
妻帯者が、深夜0時を過ぎてから女性秘書を幾度となく家まで送り届け、そのまま1、2時間も部屋に上がり込んでいる。それがさも当然であるかのように彼は言い放った。
どうして一言も話してくれなかったのか。私がそう問い詰めると、誠司はみるみる険しい顔つきになった。
「なんだ、尋問のつもりか、恵理奈」
そして、あからさまに矛先を私へと向けてきた。
走行履歴を盗み見るなんてプライバシーの侵害だ、束縛が激しすぎる、被害妄想だ、嫉妬深い、と。
彼に言わせれば、玲奈はただの頑張り屋の若い部下であり、自信のない妻の嫉妬で辱めを受けるいわれなどない、ということらしい。
翌朝、誠司は玲奈を自分の直属の部下にした。
「そんなにあいつの能力が信用できないなら、これからは俺が直接面倒を見る」
私が異を唱えても、彼が玲奈と距離を置くことはなかった。それどころか私の反対を口実に、ますます彼女との距離を縮めていく。
それからの誠司は、玲奈へのえこひいきを隠そうともしなくなった。
土地の入札に出向くときも、連れて行くのは玲奈ひとりだけ。業界の会食では彼女を自分の隣に座らせ、妻である私は別のテーブルへと追いやられる。
ある晩、見かねた同業者がとうとう誠司のそばに寄り、小声で耳打ちした。
「桐生さん、奥さんもいらしてますよ」
誠司は眉をひそめ、私を見た。
「恵理奈は、そんな些細なことで目くじらを立てるような女じゃないんですよ」
彼は、何もかもわかっていたのだ。
私が黙っていれば、このまま玲奈をパートナーのように扱い続けられる。私が口を開けば、それこそ私が心の狭い女だという証明になる。
その夜、家に帰るなり私たちは激しく言い争った。
お前のせいで恥をかいた。嫉妬深くて面倒な女と結婚したと皆に思われたと、誠司はそう私をなじった。
そして私を懲らしめるために、4日間姿を消した。電話にもメッセージにも一切応じなかった。私が謝るまで、ずっと。
ようやく帰ってきたとき、彼は友人を何人も引き連れていた。
彼らはうちのリビングに陣取り、代わる代わる、いかに私が間違っているかを説いて聞かせる。
「玲奈さんはただの部下だろう?」
「誠司は仕事だけでも手一杯なんだ。少しは支えてやったらどうだ」
「夫婦には信頼が大事なんだよ。こんなふうに疑われ続けて、耐えられる男なんていないって」
誠司はソファの真ん中に腰を下ろしたまま、彼らが寄ってたかって私を責め立てるのを黙って眺めていた。
一度として、私をかばってはくれなかった。
皆が言い終えると、彼は私を見て言った。
「少しは考え直したか?」
しばらくのあいだ、私は本気で、自分自身が神経質すぎるのだと思い込みかけていた。
誠司は玲奈の仕事ぶりを買っているだけなのかもしれない。私が責めるのをやめさえすれば、私たちは元どおりの夫婦に戻れるのかもしれない、と。
そして、今回の冷戦状態に陥ってから3日目のことだった。
私は急性胃炎になり、立っているのもやっとの状態だった。医師からは、すぐ病院へ行くよう言われていた。
誠司は、ダイニングテーブルに置かれた薬を目にしていた。片手で胃を押さえ、もう片方の手で壁に縋りながら寝室から出てくる私の姿も見ていた。
それでも彼はスーツケースを手に取り、玲奈と出張へ出かけていった。
玄関のドアが閉まった瞬間、私の胸の奥で何かがすっと静まった。
彼に電話をかけ直すこともしなかった。どこへ行くのかと問い詰めることもしなかった。
この時初めて、彼の言い訳を聞きたいとすら思わなくなっていた。
ようやくわかったのだ。問題は最初から、私の我慢が足りないとか、器が小さいとか、そんなことではなかったのだと。
誠司には「嫉妬深い妻」という免罪符が必要だったのだ。そうすれば私を悪者に仕立て上げ、何度でも堂々と玲奈を優先できるから。
たとえ私があのカーナビの履歴を見つけなかったとしても、彼は別の理由をこしらえて玲奈と食事をし、家まで送り、ふたりきりの旅に出かけていただろう。
そして私が何か言うたびに、心が狭いと責め立てたに違いない。
その日の午後、誠司から玲奈の不動産案件が回ってきた。目を通してくれ、ということだった。
土地には深刻な土壌汚染のリスクがあり、融資の金利も法外に高かった。
私は報告書に、赤字でただ一言書き記した。
【投資不可】
誠司はその1行を削除し、案件を承認した。
私がそれを知れば、すぐにでも社長室に乗り込んでくる。彼はそう思っていたのだろう。
私は、何もしなかった。
1週間後、誠司と玲奈が戻ってきた。
ホテル物件の入札はたった2日で終わっていた。残りの5日間、2人は海辺のリゾートでバカンスを楽しんでいたのだ。レストランで食事をし、クルーザーで海に出て、貸し切りのワインテイスティングにまで足を運んでいた。
帰ってきてからも、ふたりは連れ立ってランチに行き、ゴルフをし、新しい開発予定地を見て回った。
表向きは、何ひとつ変わっていない。
けれど、ふたりの距離は確実に縮まっていた。
肌で感じ取れるほどに。
もう、どうでもよかった。
3年の結婚生活。それで十分だった。
その夜、港南ハーバーレジデンスのリスク報告書をもう1本仕上げたところで、スマホの画面が光った。
玲奈が新しい写真を投稿していた。
完全予約制の高級ルーフトップレストラン。そのテラスに立つ彼女の背後のテーブルには、シャンパングラスがふたつ並んでいる。
彼女が羽織っているのは、誠司の黒いコートだった。
すぐそばに誠司が立ち、彼女の首にマフラーを巻いてやっている。
添えられた一文は、こうだった。
【私が寒がりなこと、いつも覚えててくれる人がいる】
コメントは次々とついた。
【社長さん、優しすぎ!】
【社長とお似合いすぎます】
誠司は、ふたつ目のコメントに「いいね」を押していた。玲奈は照れ笑いの絵文字で返している。
以前の私なら、すぐさま誠司に電話をかけていただろう。
そして、玲奈のSNSを嗅ぎ回ってはくだらないことで喧嘩を吹っかけてくるのだと責められるのがお決まりだった。
今回私は、黙ってアプリを閉じた。
仕上げた報告書を誠司にメールで送り、パソコンの電源を落として、ひとりで車を運転して帰った。
リビングに入ったちょうどそのとき、誠司から電話がかかってきた。
ところが通話に出ると、先に聞こえてきたのは玲奈の声だった。
「恵理奈さん、リスク報告書、代わりに仕上げてくれてありがとう。誠司さんもすっごくよくできてるって。今度ご飯おごらせてね」
私が返事をするより先に、電話の向こうから誠司の声がした。
「礼なんか言わなくていい。あいつはそのために給料をもらってるんだから」
玲奈がくすくすと笑う。
「ふふっ。自分の奥さんなのに、ずいぶん厳しいのね」
ふたりの笑い声が重なった。
私がまだ電話口にいることを誠司が思い出すまで、数秒の間があった。
「今夜は遅くなる。先に寝てろ。待たなくていい」
それだけ言うと、誠司は電話を切った。
誠司が遅くなると言った夜は、いつもリビングで彼の帰りを待っていた。
けれど、今夜は違った。
私は2階に上がり、スーツケースに荷物を詰めた。
離婚手続きが正式に完了する日まで、あと3日。
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