あなたが読まなかった一枚、それが別れ状第3話
この話は約1556字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
誠司と玲奈がホテル物件の入札と称して出発したあの日、私は港南ハーバーレジデンスの決裁書類の束に、離婚協議書を忍ばせておいた。
出発を急いでいた誠司は、書類のタイトルにも目を通さなかった。付箋のついた箇所に、片っ端から署名していっただけだ。
翌朝、弁護士から連絡があった。
必要な手続きはほぼ整い、10日後には裁判所で最終確認が行われ、離婚が正式に成立する予定だという。
残された時間は、あと3日。
私は早川隆一(はやかわ りゅういち)に電話をかけた。
かつての私の恩師であり、現在は外資系不動産投資ファンドを率いている。
3年前、そのファンドの本社から、シニア投資マネージャーとして来ないかと声がかかった。
けれどちょうどそのころ、誠司は桐生開発を立ち上げたばかりだった。私のことが必要だと、彼が言っていた。
だから私はその誘いを蹴り、古びたアパート1棟の運用から始めて、彼と共に今の会社を築き上げてきたのだ。
キャリアを犠牲にするな、と隆一には忠告された。
それでも私は聞き入れなかった。
恋に目がくらみ、大事な選択まで恋心に左右されてしまったのだ。
「……恵理奈」
長い沈黙のあと、隆一が言った。
「本当に、また彼のために残ったりはしないんだな?」
「ええ、しません。もう離婚協議書にサインしてもらいましたから」
「離婚協議書って、何の話だ?」
不意に、背後の戸口から声がした。
振り返ると、書斎の入口に誠司が立ち、眉をひそめて私を見ていた。
私が答えるより早く、彼のスマホが光る。
誠司は画面に目を落とし、口の端をわずかに緩ませた。
再び私に視線を戻したときには、その笑みはすっかり消え失せていた。先ほどの問いすらも、頭から抜け落ちてしまったようだ。
「こんな時でも、仕事の電話か?」
私は通話を終え、スマホを置いた。
「ちょっと仕事を片付けてたの」
誠司が、私の机の上の書類に目をやった。
「港南ハーバーレジデンスの引き継ぎ、まだ終わってないのか?」
「もうすぐ終わるわ」
彼の眉間の皺が深くなる。
「最近、仕事が遅いな。明日から玲奈が正式に引き継ぐんだ。プロジェクトを取られた腹いせに、ぐずぐず引き延ばすなよ」
私は何も弁解しなかった。
誠司は背を向け、寝室へ戻っていった。
数分後、彼の笑い声が聞こえてきた。
玲奈にボイスメッセージを送っているのだ。屈託のない、心からの笑い声だった。
彼が私の前でそんなふうに笑ったのがいつだったか、もう思い出せなかった。
私は書斎のドアを閉め、ファンドの過去3年分の投資レポートに再び目を落とした。
海外市場から離れて、あまりに長い時間が経っていた。
新しい規制も、資金調達のスキームも、市場の変化も、一から頭に入れ直さなければならない。
久しぶりに、私の意識は完全に誠司から離れていた。
本来向けるべき場所――私自身へと戻ってきたのだ。
「それ、海外の買収案件のレポートか?」
いつの間にか、誠司が戻ってきていた。
彼は1冊を手に取ってぱらぱらとめくると、短く笑った。
「うちの会社とは桁が違う案件ばかりじゃないか。読んだところで、お前に中身がわかるのか?」
桐生開発が最初の大型出資を取りつけたとき、企業価値の算定モデルを一から組み上げたのは私だった。
けれど誠司は、難しい仕事を私に押しつけることにすっかり慣れてしまい、それが専門的な技能だとはもう思っていなかった。
彼にとっては、私が当然のようにやってくれる仕事でしかなかったのだ。
私はレポートを集め、きちんと揃えて重ねた。
「ちょっと眺めてただけよ」
誠司は書類を置き、それ以上何も聞かなかった。
彼は知る由もなかった。3日後、私がそのファンド史上最年少の地域統括投資ディレクターに就任することを。
そして私を待っている最初の買収案件が、誠司が何年も前から欲しがっていた、都心の一等地の物件だということを。
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