あなたが読まなかった一枚、それが別れ状第1話
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桐生誠司(きりゅう せいじ)が私と口をきかなくなってから3日が経った。私たちが経営する会社の社長でもある彼は、秘書の皆川玲奈(みながわ れな)が持ち込んだ不動産投資案件を、あっさりと決裁した。
どう試算しても赤字にしかならない案件だった。
私、桐生恵理奈(きりゅう えりな)が社長室に怒鳴り込み、決裁を取り消せと詰め寄る。誠司はそう高を括っていたのだろう。
けれど、私は動かなかった。
1週間後。出張から戻った誠司は、私が文句ひとつ言わず騒ぎも起こさなかったと知ると、ここ数か月見せたことのない満足げな眼差しを私に向けた。
そしてあろうことか、私を役職から外し、その座に玲奈を据えたのだ。
今度こそ私が怒りを爆発させる。そう踏んだに違いない。
それでも、私は何も言わなかった。
担当していた案件の資料をひとつ残らず整理し、玲奈の新しいデスクに整然と並べて置いた。
すると誠司は、私が書き上げた企画書の責任者欄から私の名を消し、玲奈の名前に差し替えた。彼女にボーナスを受け取らせる、ただそれだけのために。
それに対してすら、私は抗わなかった。
玲奈は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、誠司の耳元で囁いた。
「ね、私の言った通りでしょ?恵理奈さんとは正面からぶつかっちゃ駄目なのよ。しばらく冷たくあしらい続ければ、勝手に折れてくるんだから。あなたを失うのが怖くて仕方ないのよ。だからやっと大人しくなったってわけ」
誠司はその言葉を、微塵も疑うことなく真に受けた。
それどころか、人の心理をよく分かっていると玲奈を褒めた。
その夜、誠司は私を社長室に呼び出した。昇給と元の役職への復帰、それに3年も先延ばしにしてきた海外への新婚旅行を約束すると言い出したのだ。
彼が私にこれほど優しい言葉をかけたのは、本当に久しぶりのことだった。
私が感極まって涙を流して喜ぶとでも思っていたのだろう。
でも、私は泣かなかった。
7日前、玲奈が持ち込んだ、破綻するのが目に見えていた案件を、ろくに確認もせず急いで決裁していたあの時。誠司は、私が書類の山に紛れ込ませておいた離婚協議書にも、中身を確かめることなく署名を済ませていたのだから。
そのことを、彼はまだ知らない。
* * *
「恵理奈さん。港南ハーバーレジデンスの最終提案書、明日の朝一で取締役会に出さなきゃいけないの。リスク評価は今夜中に仕上げておいてって、誠司さんが言ってたわ」
玲奈はそう言うが早いか、分厚い書類の束を私のデスクに無造作にどさりと置いた。
一番上には最新の環境調査報告書。その下にテナントとの係争に関する資料、融資条件、最新の改修予算書が積み重なっている。
どれか一つでも見落とせば、会社に数億円規模の損失が出かねない代物だ。
玲奈がこの案件を受け取ったのは午後3時。
だが、時刻はすでに夜の8時40分を回っている。
「わかったわ」
私は書類を手元に引き寄せた。
私があっさり引き受けるとは思っていなかったのだろう。玲奈は一瞬、拍子抜けしたような顔を見せた。
「私と誠司さん、今夜は銀行との打ち合わせなの。遅くなるかもしれないから、終わったら社長室に置いといてね」
踵を返しかけた彼女は、ふと立ち止まって振り返った。
「あ、そうそう。社長室の建築模型、埃をかぶってるみたいなの。ついでに拭いておいてくれる?」
言うだけ言うと、カツカツとヒールを鳴らしながら去っていった。
フロアに、しんとした静けさが戻る。
残業していた数人の社員が、気まずそうにちらちらとこちらをうかがっていた。
私が誠司の妻だということは、社内で知らない者はいない。
玲奈はただの秘書にすぎないはずだった。
それなのに、この桐生開発で我が物顔で周囲に指図する彼女は、まるで自分こそが社長夫人であるかのように振る舞っていた。
半年前、誠司は倒産寸前だった不動産会社から彼女を引き抜いてきた。
大型開発プロジェクトに携わった経験など皆無にもかかわらず、たった3か月で社長秘書から開発部次長の座へと駆け上がったのだ。
その彼女が今、港南ハーバーレジデンスに手を伸ばしている。
あの、私のプロジェクトに。
私は1年以上かけて用地取得の交渉を重ね、法務や資金繰りの問題を一つ一つ潰してきた。
ようやく着工にこぎつけたそのとき、誠司はプロジェクトリーダーを玲奈に替えると言い出したのだ。
先週の役員会では、7人の役員全員がこの理不尽な人事に異を唱えた。
この人事に賛成したのは、社長である誠司ただひとりだった。
それでも彼は考えを改めるどころか、私が役員たちを裏で抱き込み、新参者である彼女を追い出そうとしているのだと責め立てた。
「お前が裏で手を回したんだろう。競争相手が増えるのが気に食わないだけだ」
そして、私をプロジェクトから外した。
玲奈の起用に反対した役員たちもひとり残らず中核チームから外され、今期の賞与まで凍結された。
それ以来、誠司に楯突く者は誰もいなくなった。
その夜、帰宅した誠司は、彼なりの言い分を聞かせてくれた。
「お前は俺の妻なんだから、みんなが自然とお前の味方をするのは当たり前だろう?玲奈には、この会社に何の後ろ盾もない。庇ってくれる人間がひとりもいないんだよ。俺はただ、あいつにも公平にチャンスを与えたいだけなんだ」
それなのに私は、なぜかその言葉を信じてしまったのだ。
玲奈が港南ハーバーレジデンスの案件を引き継いで1週間後。彼女は物件の延床面積と賃貸可能面積を混同するという初歩的なミスを犯した。
そのせいで、会社は危うく12億円もの損失を出すところだった。
私は一睡もせずに収支モデルを一から組み直し、期限ぎりぎりで買付条件を再交渉する羽目になった。
それでも、玲奈がその座を追われることはない。
誠司は相変わらず、それを「公平」と呼んだ。
手柄はすべて玲奈のもの、尻拭いはすべて私の役目。
階段のほうから足音が近づいてくる。
私が顔を上げると、役員フロアから誠司が下りてくるのが見えた。
チャコールグレーのコートに、銀色の機械式腕時計。玲奈が誕生日に贈った時計だ。
私も今まで、彼に何本か高級な腕時計を贈ったことがある。けれど、彼がそれを身につけてくれたことは一度もなかった。
仕事中に手首に何かあると気が散る。それがいつもの言い訳だった。
それなのに、玲奈が贈ったあの時計だけは、この3週間、1日も欠かさず腕にはめているのだ。
誠司の視線が、一瞬だけこちらに向いた。
私のデスクを埋め尽くす書類の山に、その視線がわずかに止まる。
こんな時間まで何をしているのか、とは聞かなかった。
ただ腕時計に目をやり、そのままエレベーターへ歩いていった。
数分後、玲奈が化粧室から戻ってきた。
口紅を引き直し、ジャケットも脱いでいた。彼女が身にまとっていたのは、体のラインにぴたりと沿う黒のタイトワンピース一枚だけだった。
彼女は弾むような足取りで、私のデスクの脇を通り過ぎていった。
「あんまり頑張りすぎないでね、恵理奈さん」
エレベーターの扉が開いた。
中では誠司が待っていた。彼は扉を押さえ、玲奈が乗り込むのを待った。
扉が閉まるまで、彼が私に目を向けることは一度もなかった。
誠司は、すべてわかったうえでやっているのだ。
すべての始まりは3か月前。誠司の車のカーナビに、玲奈の住むマンションが「よく行く場所」として登録されているのを見つけたことだった。
ひと月で17回。
だから私は、彼を問い詰めた。
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