3年の背伸びはもう終わり、彼の世界には入らない第2話
この話は約2131字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
借りている部屋に戻ると、微熱が出た。
航平から電話が来たのは、翌朝になってからだった。出てみると自分でも驚くほど声がかすれていたのに、彼は気づかず、問い詰めるように言った。
「昨日は新居の確認もうまくいってたのに、どうして急に帰ったの?」
「服が濡れて、熱が出たの」
電話の向こうが一瞬静かになり、航平の声が和らいだ。
「声紋はもう登録してもらったよ。家具はいったんそのままにして、結婚してしばらく暮らしてから、不便なところを一緒に直そう」
初めて彼が譲ってくれたと言える言葉だった。
スマホの画面には、婚約の解消について調べていたページが開いている。けれど、それ以上指を動かすことはできなかった。
3年、一緒にいた。結婚式の招待状も出してしまった。私は、やり直す機会をもう一度だけ彼に与えることにした。
午後、解熱剤を飲んでドレスショップへ向かった。そこには玲奈もいた。
ロングワンピースを着てソファでカタログをめくっていた彼女は、私が入るとすぐに立ち上がった。
「沙穂、誤解しないでね。航平はドレスのことがわからないから、選ぶのを手伝ってって頼まれたの」
私は相手にせず、航平を見た。彼は近づいて私の額に触れ、眉をひそめる。
「こんなに熱いじゃないか」
慣れ親しんだ手のぬくもりに、泣きそうになった。
大学時代、40度の熱を出した私の枕元で、彼は一晩中付き添い、30分おきに冷たいタオルを替えてくれた。
けれど、次の瞬間にはもう手が離れた。
「熱があるのに出歩くから。試着が済んだら早く帰って。予定に支障が出ると困るし」
ちゃんと愛してくれたこともあった。ただ今は、私に向けるはずの気遣いも、辛抱強く向き合う気持ちもなくなっていた。
予約していたドレスを、スタッフが運んできた。長いトレーンに、びっしりと並ぶビジュー。
私が選んだシンプルなドレスではない。
私はスタッフに視線を向けた。
「最初に選んだものを試着したいんです」
スタッフは困った顔をした。
「先日、相沢様が藤野様といらして、ご注文を変更されたんです。こちらは藤野様がご試着なさったサンプルと同じ型で、サイズも藤野様に合わせて確定するよう承り、代金も全額頂戴しております。
元のデザインへ戻す場合は、あらためて製作の順番をお待ちいただくことになります」
玲奈が近づき、裾に指先を触れた。
「これ、着るとすごくきれいなの。このブランドのイベントで、同じシリーズを試したことがあるんだ。沙穂は小柄だから、少し丈を詰めれば着られるよ」
私は顔を上げて航平を見た。
「ドレスは自分で選んでいいって、約束したよね」
彼は目をそらし、面倒そうに言った。
「まずは着てみてよ。本当に合わなかったら、そのとき考えよう」
試着室でスタッフがウエストを絞ってくれたが、背中には大きな隙間が残った。1歩進むと、余った生地が足元にたまる。
スタッフは十数本のピンを持ってきた。
「かなりサイズが違いますね。無理に詰めるとウエストのラインが崩れてしまいます。相沢様からは、身長175センチのサイズでと伺っておりまして」
カーテンの向こうで、航平が言い訳した。
「玲奈がこれを気に入ったから、ひとまず彼女のサイズで取り置きしてもらったんだ。直せば着られるよ。そんなにわがままを言わないで」
鏡を見ると、ドレスの肩のラインは落ち、ウエストは1列のピンでかろうじて絞ってあった。まるで、他人のために作られたドレスを無理やり着せられているみたいだった。
私は勢いよくカーテンを開けた。
外では玲奈がジュエリーボックスから同じデザインのサンプルリングを取り、慣れた手つきで自分の薬指にはめていた。
「沙穂、石がしっかり留まってるか、見てあげるね」
ダイヤの指輪は彼女の指の付け根にぴたりと収まった。玲奈はそれを外し、笑顔で差し出した。
受け取って薬指にはめると、指輪はそのままするりと抜け落ち、重たいドレスの裾に落ちた。
拾わなかった。私は航平をまっすぐに見た。
「私の結婚指輪まで、彼女のサイズで用意したの?」
航平の表情が一瞬こわばった。
「デザインを選ぶのを手伝ってもらったら、お店が試着したときのサイズでサンプルを用意したんだ。本番用の指輪は、まだサイズを直せるよ」
あまりにも馬鹿げていた。
「ドレスも、指輪も、新居も。全部、少し直せば私に使わせられるってこと?」
「どうしてそういう受け取り方しかできないの?」
彼はかがんで指輪を拾った。声はすっかり冷えていた。
「ドレスを注文し直したら、あと2か月かかるんだよ。ホテルの予約は?招待した人たちはどうする?寸法がいくつか違うだけで、全部の予定をひっくり返すわけにはいかないだろ」
大きすぎるドレスの端を握りしめた。
「これは着ない」
航平は指輪を音を立てて箱に戻し、もう私を見なかった。
「青山沙穂(あおやま さほ)、いつからそんなに面倒くさくなったんだ?」
鏡には、背中に並ぶピンが映っていた。私のものではないドレスを、無理やりこの体に留めている。その列が、最後まで自分に言い聞かせていた言い訳を突き崩した。
私は試着室へ向かった。その背後で航平はさっさとスタッフに向き直り、お直し用の寸法を記録するよう頼んでいた。
私がまだこのドレスを着たいのか。
それさえ、聞こうともしなかった。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)