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3年の背伸びはもう終わり、彼の世界には入らない第1話

この話は約2390字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

半年かけて内装を整えた新居は、そこで暮らすはずの私を、隅々まで拒んでいた。

身長160センチの私が洗面台の前に立つと、水はねが鎖骨にまで届く。ウォークインクローゼットのハンガーパイプは、精いっぱい跳び上がっても端に触れるのがやっとだ。

ところが、175センチある藤野玲奈(ふじの れな)がドアを開けて入ってくると、まるで自分の家に帰ってきたようだった。

玄関のいちばん上のフックにひょいとバッグを掛け、アイランドキッチンにゆったりともたれかかる。

「この高さ、やっぱりいいね。野菜を切るのも果物を洗うのも、腰が疲れない」

私の婚約者・相沢航平(あいざわ こうへい)はどこか得意そうに目を輝かせ、笑った。

「そりゃそうだよ。寸法は全部、玲奈に合わせて決めたんだから」

私の顔から血の気が引いたのを見て、航平はようやく申し訳程度の説明をした。

「あのときはデザイナーに急かされて、君は残業中だったし。それで、玲奈の寸法を使っただけだよ。ね、あとで踏み台をいくつか作ってあげるから」

貯金を使い果たして築いた、私の心安らげる場所。それが、別の女のための愛の巣になっていた。

私は苦く笑った。

それなら、この家には住まない。

この婚約者も、もういらない。

* * *

蛇口の水は、まだ出しっぱなしだった。

つま先立ちでレバーに手を伸ばすと、袖口がカウンターに触れ、冷たい水が手首を伝って袖の中へ入り込んできた。胸に残っていた最後の期待まで、洗い流すように。

航平は入り口に立ち、苛立った声を出した。

「たかが数センチ違うだけで、そんな顔することないだろ」

「15センチよ」

水を止めてかかとを下ろす。ふくらはぎは、だるさで震えていた。

「図面では洗面台は80センチだった。今は95センチ。クローゼットも吊り戸棚も、玄関のフックも、全部高くなってる」

航平が顔を上げた。

「そこまで測ったの?」

「私が住む家だから」

最初のプランは、十数晩も夜更かしして、少しずつ練り直したものだった。80センチにしたくてショールームを7か所も回り、タイルも間接照明も収納も、表にして1つずつ確かめた。

工事の終盤だけは、費用を捻出しようと残業続きになり、現場の確認を航平に任せていた。工事のグループチャットには一部分の写真しか送られてこない。赤ペンで丸をつけた寸法がすべて変えられていたと、今日初めて知った。

「これからは僕が取ってあげればいいだろ?」

あまりにも当たり前のように言うので、ふと3年前のことが浮かんだ。

当時住んでいた古いアパートも、カウンターが高すぎた。航平は工具を借り、一晩かけてキッチン収納の棚板を全部低くし、机の脚まで短く切ってくれた。

いつか2人の家ができたら、何もかも私に合わせる。背伸びして我慢させるようなことは、絶対にしない。そう言っていた。

なのに今、手を洗うにも服を掛けるにも踏み台を運ばなければならない家を、私に差し出している。そのうえで、ときどきは手伝ってあげると言う。

「航平、自分の家で物を取るたびに、人に頼むような暮らしは嫌なの」

「踏み台をいくつか作るだけだよ。そんなにお金もかからないだろ」

答えになっていなかった。

窓の外はもう日が落ちたのに、リビングのセンサーライトはつかない。私は部屋の中央へ進み、スマートスピーカーに話しかけた。

「リビングの照明をつけて」

「認識できませんでした。もう一度お話しください」

無機質な電子音が、暗闇に冷たく響く。

もう一度言っても、結果は同じだった。

玲奈が軽く咳払いをした。

「リビングの照明をつけて」

家中の間接照明が順にともり、カーテンまで左右にすっと開いた。夕暮れの光が差し込み、照明の真下に立つ玲奈は、この家の主として迎え入れられていた。

「玲奈、おかえりなさい」

機械の女性音声が流れた瞬間、部屋が静まり返った。航平を見ると、目をそらされた。

玲奈は潤んだ目をぱちぱちさせ、何も悪いことなどしていないという顔で私を見た。

「沙穂(さほ)、変に考えないでね。一昨日、航平に頼まれてシステムの調整を手伝ったの。登録を消し忘れただけだから……

航平、私の登録、早く消して。沙穂がまた不機嫌になっちゃう」

航平が私の手を取ろうとした。

「せっかくみんなが集まるんだし、こんなことで雰囲気を悪くしないで。沙穂の声紋は今夜登録するから」

私はその手を避けた。

「家具は作り直して。彼女の登録を消してから、私の声を登録して」

途端に、航平の眉間にしわが寄った。

「もういい加減にしてくれないか?オーダー家具は全部取り付け済みなんだ。撤去して作り直したら、少なくとも200万円以上かかる!」

「でも、最初に払った工事代の大半は私のお金よ」

「お金を出したのは沙穂でも、僕と玲奈は時間を使った。少し不便だからって、家中全部やり直すわけにはいかないだろ」

目の前にいる人が急に知らない人に見えた。真夏なのに、体の芯が冷えていく。

玄関の外で足音がして、新居を見に来た友人たちがお祝いのお酒を提げて入ってきた。

「広々としてて、いいデザインだね。玲奈が載せてた写真、すごく高級感があった」

「この高い吊り戸棚なんて、背の高い人によく似合うよね」

私の胸元がびしょ濡れなのに気づき、誰かが鼻で笑った。

「奥さん、蛇口に届かないなら無理しなくていいのに。明日、子ども用の踏み台を贈ってあげるよ!」

航平は私を脇へ引き寄せ、声を落とした。

「悪気はないんだよ。玲奈の顔をつぶさないで。何度も足を運んでくれたんだから」

気にかけるのは、いつも仲のいい女友達のことばかり。私のことは、何ひとつ考えてくれない。

「航平、この電動カーテン、どうやって開けるの?教えて!」

「今行く!」

航平は背を向け、そのまま行ってしまった。

玄関の棚に置いてあった鍵を手に取り、ためらっていたとき、あの声がまた流れた。

「玲奈、おかえりなさい」

私はドアを開け、別の誰かのために作られた家を後にした。

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