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風も月も、そして彼もいない第3話

この話は約1814字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。

意識が遠のく直前、雪乃は必死に正樹の襟を掴んだ。

「ま、正樹……、私に……死んでほしいの?」

正樹の瞳に宿った恐怖はあまりにも生々しく、彼は泣き叫ぶように声を上げた。

「早く救急車を呼べ!急いで!

雪乃、きっと大丈夫だ。俺が何とかするから、心配するな」

眩しい手術灯の下で、雪乃は一瞬だけ意識を取り戻した。

手術室の外から、正樹の叫び声が響いた。

「妻を助けてください!どうか妻を!」

冷たいメスが喉をかすめ、雪乃はようやく深く息を吸った。

――目を覚ますと、正樹はベッドの傍らでうたた寝していた。

眉をひそめ、無精ひげを伸ばしたまま、着ているのは昨日のスーツのままだった。

雪乃には理解できなかった。

なぜ、自らの命を顧みずナイフを受けた男が、その一方で平然と浮気などできるのだろうか。

しかも相手は聾唖の女性だというのに――

死の淵をさまよったあと、雪乃はいくつかのことを悟った。

もし正樹がここで手を打ち、香里と優子を解雇するなら、すべてを水に流そう。

これ以上責任を問うつもりはない。正樹に命を救われた恩として――

やがて正樹が目を覚まし、涙をにじませた。

「雪乃、死ぬほど驚いたよ。危うく君が……愛してる、雪乃!」

雪乃は彼の手の甲を軽く叩いた。

「バカね。見ての通り、私は無事よ。試練を越えた者には、必ず幸運が訪れるわ」

「でも、君の首には……心配するな。最高の医師に頼んで消してもらうよ」

雪乃は静かにうなずいた。

「一日中、何も食べていないよね。何が食べたい?」

気管切開のため、雪乃はまだ固形物を口にできなかった。

「お粥が食べたいわ」

正樹は即座に立ち上がった。

「俺が直接車で買いに行くよ。必ず熱々のお粥を届けるから」

去り際、正樹は身をかがめて彼女の首の傷跡にそっと口づけ、顔一面に慚愧の色を浮かべた。

病室のドアが閉まると、雪乃は偽装死サービスのスタッフにメッセージを送った。

【依頼をキャンセルします。費用の返金は不要です】

――一時間経っても、正樹は戻らなかった。

雪乃が何度電話しても応答はない。

暇つぶしに地元のショート動画を眺めていると、目を刺すような見出しがあった。

【ラブスノー社社長、某病院産婦人科に出現――夫人の妊娠疑惑が浮上か】

見出しの下には鮮明なGIFがあり、正樹がある女性を支えながら、産婦人科の受付へ入っていく姿が映っていた。

恐ろしい考えが、雪乃の頭の中で渦を巻く。

そのとき正樹から電話が入った。

「雪乃、少し渋滞してるから、慌てずもう少し待ってて」

雪乃は鼓動を押さえ、平静を装った。

「急がなくてもいいわ、ゆっくり運転して」

通話を切ると、点滴を外し、雪乃は二階の産婦人科フロアへ向かった。

曲がり角で立ち止まり、診察室の扉から出てくる正樹と香里を目にした。

彼は片手で香里の腰を支え、もう一方の手を彼女の腹に添えていた。

「お腹の子に免じて、ケーキの件はもう追及しない。

ただし、あのドジな母親に伝えろ。次があれば追い出すと」

香里は慌てて手話で弁解した。

「母はわざとじゃない、彼女は子供の祖母よ。それに奥様も無事だし」

正樹は重くため息をついた。

「雪乃に出産の苦しみを味わわせたくなかったから、君に妊娠させたんだ。幸い彼女は無事だったからよかったものの、そうでなければ君の子も取り上げてたよ」

――正樹は浮気だけでなく、香里に子を孕ませた挙げ句、その理由が「雪乃に出産の痛みを経験させたくなかった」とは、あまりに滑稽だ。

香里が彼の冷酷さに呆然とする中、正樹は慰めるように告げた。

「でも心配するな。雪乃の命は助かった。醜い傷は残ったが、命に別状はない」

その時、優子が階段口から現れ、同じ保温容器を二つ手に持っていた。

正樹は身を起こし、警告した。

「今度は変なものを入れてないだろうな?」

優子はぺこぺこと媚びへつらった。

「とんでもございません。香里にも食べさせますので、娘を害するはずがありませんよ」

――娘は害さないが、雪乃なら平気で害すのか。このクソババアめ。

正樹は鼻で笑い、差し出された保温容器を受け取ろうとしたが、もう一方の容器を奪い取った。

「大人しくしていろ。無事に子を産めば冷遇はしない。ただ余計な考えは捨てろ。正妻は、これからも雪乃だけだ」

雪乃は足取り重く病室へ戻り、洗面所の鏡に映る白い首の醜い傷を見つめ、冷ややかに笑った。

そしてスマホを手に取り、偽装死サービスの担当者に電話をかけた。

「サービスを続行してください。日時を来週の月曜日に繰り上げます」

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