風も月も、そして彼もいない第2話
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正樹は手を差し出し、雪乃の目の前で軽く揺らした。
「何をそんなに考え込んでいるんだ?」
現実に引き戻され、雪乃はわずかに作り笑いを浮かべた。
「一週間後には新作が発売されるけど、会社の方はすべて手配済みかしら?」
正樹は愛しげに雪乃の頬をつまんだ。
「二宮大先生、しばらく調香のことを忘れられないのか?今日が何の日かも忘れてるだろう」
雪乃はスマホのカレンダーをちらりと見た。
五月八日――彼女の二十八歳の誕生日だった。
「仕事人間は忙しいと、何でも忘れちゃうんだから。さあ、早く中に入って。サプライズを用意してあるんだ」
別荘の扉を開けると、友人たちが一斉に飛び出し、声を揃えて祝福した。
「お誕生日おめでとう!」
明かりと音楽に包まれ、正樹は雪乃の手を取り、大広間の中央へと導いた。
注目の視線が集まる中、正樹はブルガリのサファイアネックレスを雪乃の首にかけた。
人々の間にざわめきが走った。
「わあ!あのネックレス、私の推しアイドルもつけてたやつよ。確か四十カラットもあるって」
「遠山社長が半年前に予約したらしいよ。数十億するらしい。奥様は本当に幸せ者ね!」
「あれって『愛の讃歌』の香水に匹敵するんじゃない?まさに理想の夫婦だわ!」――
雪乃は喜びの表情一つ見せず、ただネックレスの重みに息を詰まらせた。
正樹は鋭く彼女の表情を読み取った。
「気に入らないのか?」
雪乃が答えようとしたその瞬間、視界の隅に香里が隅で笑みを浮かべ、こちらを見つめているのが捉えられた。
彼女のイヤリングは目立ちすぎるほどで、雪乃のネックレスとセットになっていた。
ここまであからさまにするつもりだろうか――
最初のダンスが半分ほど進んだ頃、香里は正樹に向かって手話で合図し、背を向けて立ち去った。
正樹のステップは度々乱れ、再び雪乃のドレスの裾を踏み、よろめいた。
「ごめん、雪乃。香里がクライアントから電話が入ったって言うから、ちょっと対応してくる」
彼は雪乃が手話を理解できないと思い込んでいたが、実は雪乃は聴覚障害者支援施設でのボランティア経験があり、手話を読むことができた。
香里が伝えていた内容は――「セクシーな下着で、物置で待っている」というものだった。
雪乃は、慌ただしく物置に駆け込む正樹を見つめ、一分後、香里もまた姿を消すのを確認した。
全身がこわばった。彼はそんなに待ちきれなかったのだろうか――
すると、聾唖の香里からのメッセージが画面に表示された。
正樹の欲望むき出しの声が響いた。
「小悪魔め、そんなに俺に抱かれたいのか?今日は雪乃の誕生日だから、大人しくしてるんだ」
香里は手話で問いかけた。
「じゃあ、旦那様は私とするのと、彼女とするの、どっちがお好き?」
正樹は彼女の耳たぶを軽く噛み、嘲笑った。
「あいつは君ほどエロくない。もちろん君とだよ」
香里は得意げにカメラに視線を向け、雪乃に見せつけるようだった。
遠くで正樹の友人たちがひそひそと囁く。
「さすが遠山だな。堂々と嫁の前で浮気するなんて、俺たちの手本だよ」
「ああいう女とやるって、どんな感じなんだろうな?」
一同は笑いながら言う。
「それは遠山に聞かないと。あいつは経験豊富だからな」
雪乃は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むのを感じた。
正樹の周囲は皆、正妻である自分を裏切って聾唖の香里と関係を持っていることを知っていて、自分だけが知らなかったのだ。
強い屈辱感が、雪乃を震えさせた。
バースデーソングが流れ、ようやく雪乃は我に返った。
そして、十段重ねのケーキが運ばれてきた。
「お願い事をして!」
雪乃は両手を合わせ、心から願った。
――正樹が永遠に愛する者を失い、骨まで蝕まれる痛みを味わいますように、と。
目を開けると、正樹がそこに立っていた。彼は雪乃の手を握り、情深げな眼差しを向ける。
「どんな願いをしたの?」
彼に纏わる愛の讃歌の香りは、甘ったるく生臭い匂いに覆われ、雪乃は吐き気を堪えた。
雪乃は顔色を変えずに手を引いた。
「もちろん、ラブスノー社がますます繁栄しますようにってね」
「君のような世界級の調香師がいれば、ラブスノーは必ずさらに上をいくさ」
ラブスノー社――二人が築き上げた香水会社は、無名から絶頂期までのし上がった。
正樹の経営手腕だけでなく、雪乃の卓越した調香技術が、その成功の土台となっていた。
ラブスノー――雪乃を愛する。今思えば、なんと皮肉な響きだろう。
二人は共に誕生日ケーキを切り、最初の一切れを雪乃に渡した。
雪乃が形式的に一口かじると、突然顔色を変えた。
「ケーキの中に、何が入ってるの?」
正樹は眉をひそめた。
「家政婦に新鮮なフルーツを注文させたんだけど、どうした?」
彼も一口味見して、驚いた。
「どうしてクルミとピーナッツが入ってる!?小林さん、どういうつもりだ?雪乃がアレルギーだって知らないのか!」
家政婦である香里の母・小林優子(こばやし ゆうこ)は澄ました顔で言い訳を並べた。
「申し訳ございません、旦那様。私の不手際で、全て私の責任です」
だが、雪乃には優子の目尻に潜む企みが見えた。
当初、雪乃は小林母娘を憐れみ、家に迎え入れた。しかし、その慈悲は今、邪悪な策略となり牙を剥こうとしている。
深く考える暇もなく、雪乃は呼吸が苦しくなり、全身が灼熱感と激しい痒みに襲われた。
正樹は雪乃の腰に手を回し、声を震わせた。
「グズグズするな!すぐ病院へ向かうよう運転手に伝えろ!」
優子は再び無垢を装った。
「旦那様、先ほど運転手の上田(うえだ)さんをお使いに出したばかりで、まだ戻っておりません」
雪乃は喉が腫れ、言葉を発することすらできなかった。
この母娘は、自分を死に追いやり、その座を奪おうとしている――
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