風は過ぎて、花はまだそこに第1話
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「お嬢さま、西園寺さまは今夜お帰りになりません。もうお休みになってくださいませ」
家政婦の田中が、心配そうに篠原雪乃(しのはら ゆきの)に声をかけた。
雪乃はテーブルの上、何度も温め直された料理を見つめながら、心の奥が凍りつくような痛みを感じていた。バースデーケーキのロウソクを静かに取り外し、無理に笑みを浮かべた。
「田中さん、今日は本当にありがとう」
今日は雪乃の誕生日。西園寺風真(さいえんじ かざま)は「必ず帰る」と約束してくれていた。
けれど、時計の針はもう深夜の十二時を指していた。
雪乃は自嘲気味に笑った。
――やっぱり、自分を過大評価しすぎてた。
風真のような名家の御曹司が、塵のように取るに足らない自分を気にかけるわけがない。
案の定、深夜をとうに回ってから、風真はようやくドアを開けて帰ってきた。
全身から酒の匂いを漂わせながら、ふらふらと部屋に入ってくる。
雪乃はすぐに駆け寄り、彼のコートを受け取ると、膝をついてヒールを脱がせる。
「こんな時間まで……ご飯、温め直してくるね」
* * *
「お嬢さま、西園寺さまは今夜お帰りになりません。もうお休みになってくださいませ」
家政婦の田中が、心配そうに篠原雪乃(しのはら ゆきの)に声をかけた。
雪乃はテーブルの上、何度も温め直された料理を見つめながら、心の奥が凍りつくような痛みを感じていた。バースデーケーキのロウソクを静かに取り外し、無理に笑みを浮かべた。
「田中さん、今日は本当にありがとう」
今日は雪乃の誕生日。西園寺風真(さいえんじ かざま)は「必ず帰る」と約束してくれていた。
けれど、時計の針はもう深夜の十二時を指していた。
雪乃は自嘲気味に笑った。
――やっぱり、自分を過大評価しすぎてた。
風真のような名家の御曹司が、塵のように取るに足らない自分を気にかけるわけがない。
案の定、深夜をとうに回ってから、風真はようやくドアを開けて帰ってきた。
全身から酒の匂いを漂わせながら、ふらふらと部屋に入ってくる。
雪乃はすぐに駆け寄り、彼のコートを受け取ると、膝をついてヒールを脱がせる。
「こんな時間まで……ご飯、温め直してくるね」
風真は、彼女の世話に慣れきっていたくせに、一瞥すらくれずに言った。
「いいよ、外で食べてきたから」
そう言って、雪乃の肩を擦り抜け、隣の寝室へと向かった。
「ねえ、着いた?」
スマホの画面をタップしながらの口調はやけに柔らかく、表情もまるで別人のように穏やかだった。
雪乃はふと光った画面に目を落とした。
小林綾音(こばやし あやね)――その名前が、刃のように彼女の胸を裂いた。
深く息を吸い込む。
逃げられない現実。いつか来るとわかっていた瞬間。
雪乃は苦笑して、静かに風真の母へ電話をかけた。
「奥様……風真と、離婚したいです」
「本気なの?」
電話の向こうで、彼女の声が重く響いた。
雪乃は手つかずのケーキを見つめながら、しばらく沈黙し、やがて頷いた。
「はい……もう、風真のことで悩まなくてもいいですよ。小林さんが戻ってきて、風真も喜んでます。彼はもう自傷行為はしません」
電話口から、長いため息が聞こえた。
「あなたには苦労ばかりかけてしまったわね。本当はあなたのお母さんにちょっとしたことで手伝っただけなのに……あなたはあの子のために、すべてを捧げてくれた。
なのに、風真の心には……とにかく、何か望みがあれば、西園寺家が必ず叶えるわ」
窓の外を見ながら、雪乃は小さく呟いた。
――この屋敷に閉じ込められて長かった。そろそろ、外の世界を見てみたい。
「留学を再開したいです。アメリカ行きのチケットを、お願いします」
通話を切ると、雪乃は目を閉じ、過去へと沈んだ。
雪乃の母はかつて西園寺家の使用人だった。
ある日、持病で倒れた時に手配してくれたのが、他ならぬ風真の母だった。
その時雪乃は海外の名門大学からのオファーを受け取ったが、その恩を返すために、帰国した。
ちょうどその頃、風真のことで頭を抱えていた母は、雪乃の横顔が綾音にそっくりなのに気付き、目を輝かせてこう言った。
「恩返しをしたいなら、お願いがあるの」
風真と綾音は名家同士の幼なじみ。
風真は彼女に強く想いを寄せていたが、綾音は恥ずかしがり屋で、いつも逃げてばかりだった。
ようやく大学卒業後にプロポーズを計画していたその前夜、綾音はそれを避けるために、突然国外へと姿を消した。
絶望した風真は、酒に溺れ、自傷まで始めた。
そのときに現れたのが、雪乃だった。
彼女は恩返しのために、オファーを蹴って「風真に一目惚れしたフリ」をして付き添い、不眠不休で看病を続けた。
ライバル会社の罠には一人で飛び込んだ。
車のブレーキを細工された事件では、自らの体を盾にして風真を守った。
その瞬間、風真は心底取り乱した。
「篠原、死ぬな……生きてくれたら、結婚しよう……!」
けれど、あとで知った。
風真があんなにも取り乱したのは、自分が綾音に似ていたからだということを。
いつかは彼の心を動かせると信じていた。だが、それは幻想だった。
結婚式当日、彼は家のどこにもいなかった。
あとで知った。前夜、彼は綾音に会いに行っていたのだ。
その日から、彼女は悟った。
自分は、決して風真の心の中に入ることはできない。
掴めない砂は、いっそ風に流してしまえばいい。
ワイングラスを掲げ、壁一枚隔てた向こうの風真に向かって笑った。
その笑みは、どこまでも寂しく、そして潔く――
「西園寺風真、あなたに自由を返すわ」
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