風は儚く、恋は難しく第3話
この話は約2025字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
誰も、昴真がここまで強硬に出るとは思っていなかった。リビングの空気が、まるで時間が止まったように凍りついた。
けれど、紬音は目の前で自分を庇い立てるこの男を見ても、心が少しも動かなかった。
息子が本気だと悟った昴真の母は、とうとう折れた。「もういいわ。さっさとご飯食べましょ」
食卓では、食器が当たる音と、義母の時折放つ鼻を鳴らす音だけが響いた。
紬音は箸を握る手に力が入った。
あの音は、義母が説教を始める前兆。
案の定、次の瞬間には、カチリと音を立てて箸が置かれた。
「他のことには目をつぶっても、子どもはちゃんと産んでちょうだいね?」
「志田家の血筋を、あなたたちで途絶えさせるつもり?」
昴真もすぐに箸を置いた。「何度も言った。紬音は痛みに敏感なんだ。あれほどの陣痛なんて、彼女に味わわせたくない。俺は子どもを諦めても構わない!」
その言葉に、義父母は箸を置き、完全に食欲を失った様子だった。
空気がまた重くなり始めた頃、紬音が口を開いた。「半月後ですよ。お父さん、お母さん。半月後には、おふたりに孫ができると思います」
沈黙が落ちた。全員が彼女を見た。驚きと戸惑いを隠せない表情で。
「紬音?」昴真が彼女の手を握った。「俺たち、子どもは諦めようって決めただろ?無理する必要なんてないんだよ」
紬音はその真っ直ぐな瞳を見つめながら、ほんのわずかに唇を歪めた。
「自分が産む」とは言ってないわ。
あと半月で、国外へ発つ。あれだけ遙花に夢中で、毎晩のように一緒にいたがるなら産ませればいい。
そう思って、にこりと微笑んだ。「ご両親の願いですもの、応えるべきですよね」
昴真は、妙に素直すぎる彼女の言葉に、どこか胸騒ぎを覚えた。
何かがおかしい。素直すぎる。
義父母の顔にはようやく笑顔が戻り、機嫌を取り戻した。「それでいいのよ、それで!」
昴真はどうにも引っかかるものがあり、何か言いかけたとき——スマートフォンが震えた。彼は画面をちらりと見て、表情が微かに変わった。
紬音は隣にいたため、自然と画面に映ったメッセージを目にしてしまった。
【昴真さん、ねえ、ある男の子に連絡先聞かれちゃったんだけど……教えてもいいと思う?】差出人は香坂遙花。
紬音は心の中で数を数えた。1秒、2秒、3秒——
ぴったり三秒後、昴真が立ち上がった。「悪い、紬音。会社で急ぎの用ができた。君はゆっくり食べてて。終わったら迎えに来るから」
返事も待たず、コートすら羽織らず、足早に部屋を出て行った。
彼の姿が完全に見えなくなった瞬間、義父母の顔が一変した。その目はまるで獲物を狙う猛禽のように鋭く、怒気を含んだ言葉が次々と紬音に投げつけられる。
「もう何年嫁に来てるのよ。まだ子どももいないなんて、恥ずかしくないの?
家柄も知れてるし、親も亡くなってる。昴真が気に入らなかったら、あんたなんか嫁に来れるわけないでしょ。ほんと、不幸を呼ぶ女よ!
何よその目。赤くして……どうせまた昴真に告げ口するつもりなんでしょ?どこの嫁だって姑に怒られるのよ。あの子は忙しいんだから、くだらないことで手間かけさせないで!」
気が遠くなるほどの罵声は、昼から夕方まで五時間以上も続いた。
ようやく昴真が戻り、彼女を迎えに来た頃には、陽は傾きかけていた。
車の中。
滑るように走る高級車の車内で、紬音がふいに口を開いた。「会社のこと、もう落ち着いたの?」
昴真はわずかに驚いた後、穏やかに微笑んだ。「ああ、全部片付けたよ」
そう答える彼の指先が、無意識にハンドルをトントンと叩いた。
それは、機嫌がいい時に出る癖だった。
しかし紬音が返事をしないでいると、ようやく昴真が尋ねてきた。「俺が出た後、親が何か言わなかった?」
紬音がちょうど答えようとしたその時——ふと助手席の足元に、くしゃくしゃに破れた水玉模様のストッキングが目に入った。
一瞬で、血が逆流するような感覚がした。彼が家を出たのは、遙花のところへ行くためだった。
それはもう知っていたけれど——まさか車の中で、こんな痕跡を残すほどだとは思っていなかった。
彼と結婚して五年。夜の営みにおいて、自分はずっと控えめだった。
物足りないと思わせたくなくて、恥を忍んで聞いたこともある。「変わったこと、したい?私、努力するよ?」
そのたび彼は笑って、優しく彼女を抱きしめてくれた。「紬音が好きなんだ。どんな姿でも心が動く。無理する必要なんてないよ。愛する人には、自然と惹かれるものだから」
そう言ってくれたその人が、今では別の女と、こんな風に——
涙がこぼれ落ちそうになる。「あなたは、どう思うの?」
かすれた声に、昴真は「義両親の小言で泣いてる」と勘違いした。慌てて車を停め、彼女をぎゅっと抱きしめた。
「ごめん、紬音。俺が悪かった。こんな思い、もう二度とさせないから」
その腕に包まれても、彼女はただ、息苦しさしか感じなかった。
涙を飲み込みながら、彼を押しのけた。
「運転、続けて」
もう、「これから」なんて、私たちにはないのだから。
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