風は儚く、恋は難しく第1話
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「移民を申請したいのですが」
綾瀬紬音(あやせ つむね)は窓口に立ち、準備してきた書類の束を無言で差し出した。
カウンターの向こうで職員が手際よく目を通し、必要な箇所に次々と印を押していく。そして数分後、新たな一枚の書類を彼女に差し出した。
「こちらで手続きは完了です。十五日後に結果が出ますので、それまで少々お待ちください」
紬音は軽く頷き、何も言わずその場を後にした。自動ドアへ向かう途中、不意に背後から小声のひそひそ話が聞こえてきた。
「えっ、見間違いじゃないよね?あの人、志田グループの奥様じゃない?まさか移民申請って……ご主人と何かあったのかな」
「だとしても、ちょっとやりすぎじゃない?何せ志田社長って、有名な『愛妻家の鑑』だよ?あんなに大事にしてたのに、一体何があったんだろ」
「ほんとだよ。五年前、あの『世紀の結婚式』は全国ニュースで何日も流れてたし、三年前に奥様が事故った時なんて、血液が足りないって言われて自分の血を半分以上提供したんだよね。
反対されても構わず、自分の命と引き換えに彼女を救ったって、今でも語り草だよ。去年、奥様がたった一時間行方不明になっただけで、世界中のメディア動員して探し回ったって……それなのに、奥様が黙って家を出るなんて、社長、正気保てるかな……」
耳に飛び込んでくる会話の断片。紬音は歩みを止めずに、唇を少し引き上げた。笑ったようで、どこか痛々しいその顔には、冷たい皮肉が滲んでいた。
そう、誰もが知っているのだ。志田昴真(しだ こうま)が、どれほど彼女を愛していたかを。
* * *
業界では誰もが知っている。志田グループの若き当主、志田昴真(しだ こうま)は、ビジネスの場では冷酷無情で知られ、私生活では一切のスキャンダルを寄せ付けず、女色に興味のない『氷の社長』として有名だった。
女性たちは彼の半径三メートル以内に近づくことすら許されない。彼が綾瀬紬音(あやせ つむね)と出会うまでは。
あの夜会で、昴真は彼女に一目惚れした。
そこからはまるで、長い冬を越えた春の嵐のように、猛烈なアプローチが始まった。豪邸、高級車、宝石。惜しげもなく彼女に贈られた。
三日三晩、京汐湾を照らした満天の花火は、彼の想いを空に焼きつけた。
ある晩、紬音がふと「昔食べた栗蒸し羊羹がまた食べたい」と口にしたとき、昴真は猛吹雪の中、夜を徹して三つの町を車で駆け回り、出来たての羊羹を手に濡れたまま彼女の前に差し出した。
だが、紬音の心を決定的に動かしたのは、両親を事故で亡くしたあの日だった。
昴真は遠く離れた臨城にいたが、数千億の取引を投げ打って彼女の元へ駆けつけた。
乱れた髪、血走った目。その姿のまま、彼女を抱きしめた。
「紬音、俺がいる。ずっとそばにいるから」
彼の目に浮かぶ切実な想いに、紬音の胸が震えた。
この人だ。
彼女の中で、何かが決まった瞬間だった。
だが——そんな唯一無二の愛を捧げてきたはずの男が、三ヶ月前、誘惑に負けた。
しかも相手は、彼の親友の妹で、今は志田家に居候している——香坂遙花(こうさか はるか)だった。
別荘のリビング、キッチン、ベッドルーム。あらゆる場所に、ふたりの痕跡が残っていた。
昴真は、上手く隠せているつもりだったのだろう。だがこの世に、永遠に隠し通せる秘密などない。
真実を知ったあの瞬間、紬音は苦しみ、絶望し、迷い、そして——血が滲むような思いで、その現実を受け入れた。
もう終わりにしよう。
志田家——三代にわたり公安の任務に携わってきた由緒ある家系。そのため、国外への一歩さえ、常に申請と厳しい審査が付きまとう。
つまり、紬音が海を越えれば、彼はそう簡単に追ってくることはできない。
移民の申請書類をバッグにしまい、紬音はタクシーを拾って「潮見邸」へと向かった。
志田家の邸宅に入った瞬間、ふわりと甘ったるく、どこか不快な匂いが鼻を突いた。
壁に装飾を取り付けていた男女が動きに気づき、同時に振り返る。
一瞬、昴真の目が驚きに揺れ、すぐに微笑みへと変わった。優しく近づき、彼女の手を取る。
「紬音、そんな薄着で……寒くないか?今日は友達と出かけるって言ってたのに、もう帰ってきたの?ちょうど今、サプライズの準備をしてたんだ」
サプライズ?
紬音は昴真の顔を見上げ、自然と彼の首筋へと視線が止まった。
そこには、くっきりとしたキスマークが。
睫毛が微かに震える。心の奥が痛んだ。
彼女が何も言わずにいると、遙香が甘い声で歩み寄る。
「紬音さん、昴真さんってほんとにロマンチストですね~。ふたりの『出会った記念日』を、こんなに盛大にお祝いするなんて」
遙香はわざとらしく笑いながら、ソファの横に積まれたプレゼントの山を指差す。
「見てください、これ全部、昴真さんが用意してくれたプレゼントですよ」
紬音の視線がその指の先を追う——そして、まず目に入ったのは、プレゼントの下にじんわりと滲んだ水の跡。
あの瞬間、雷に打たれたような衝撃が身体を貫いた。家に入った時に感じた匂い。ソファの染み。すべてがひとつに繋がった。
『愛している』だって?
サプライズだなんて言いながら、彼女へのプレゼントを用意しておいて、そのすぐそばのソファで他の女と交わっていた——?
しかも、夢中になりすぎてソファを濡らすほどに。
骨の髄まで痛むとは、このことだ。
昴真は彼女の異変に気づくこともなく、用意していたネックレスをそっと彼女の首にかけた。柔らかすぎる声音で囁く。
「紬音、出会った記念日、おめでとう。今日はディナーも用意してるんだ」
紬音の体が小刻みに震えた。「いい、食べたくない。ちょっと、体調が悪くて」
この空気。この男。この屋敷。すべてが、彼女にとって拷問だった。
最初から言っていたのに。自分は『感情に潔癖』なんだと。傷のある愛なんて、受け入れられないのだと。
だったらどうして、最初から手を伸ばしたの。
紬音のひと言に、昴真は顔色を変えた。
すぐさま何人もの専属医師を呼び寄せ、診察させた。異常がないとわかっても安心できず、アシスタントを走らせてサプリメントを買い込み、自らミルクを温めて彼女を寝かしつけた。
夜が更け、四、五時間かけてようやく彼女が眠りについた。
深夜。喉の渇きに目を覚ました紬音は、水を求めて部屋の外へ出た。
しかしドアを開けた瞬間——その場で凍りついた。
隣室の扉が開いていた。月明かりが差し込むその部屋。ベッドの上では、裸の男女が絡み合っていた。
「今日のネックレス、億単位の価値があるのに、私は何度お願いしてもくれなかったのに。紬音は何もしてないのに、あんな高い物すぐ渡すなんてズルい」
愛撫の余韻が残る声で、遙香が文句を漏らした。
昴真は煙草に火を点け、ベッドの端に腰を下ろした。
「自分の立場、わかってるのか?俺が愛してるのは、紬音だけだって言ったよな。
お前、続けたいなら、絶対に人前には出るな。バレたら終わりだ」
遙香の顔が引きつるが、それでも背後から彼を抱きしめ、甘えた声で囁く。
「わかってるよ。紬音にバレたくないんでしょ。でも、私は昴真さんが好き。ちょっとくらいヤキモチ焼いたって、いいじゃない……」
昴真は黙ったまま、引き出しから新しいネックレスを取り出した。紬音に贈ったものと同じデザイン——ただし色違い。
「これも買っておいた。だが、絶対に人前でつけるな。バレたら、俺たちは終わりだ」
遙香の顔がぱっと明るくなり、首にある無数の痕跡を気にもせず、ネックレスを喉元に合わせてはしゃいだ。
「ありがとう!やっぱり昴真さんって優しい~!でも、そこまでして、そんなに紬音がいなくなるのが怖いの?」
彼は、何の迷いもなく答えた。「そうだ。彼女がいなくなったら……俺は壊れる」
そして再び遙香をベッドに押し倒し、音を立てて始めた。
ベッドが軋む音。遙香の甘い声……すべてが、廊下に佇む紬音の鼓膜に突き刺さる。涙が頬を伝い落ちた。
彼女は真っ赤な目で、壁に飾られた結婚写真を見つめた。
志田昴真。十五日後、私はあなたが壊れる姿を、楽しみにしている。
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