霧が眠らないうちに第1話
この話は約3157字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
綿霧子(わた きりこ)は、桐山行人(きりやま ゆきと)が海外の闇市場から救い出した美人だった。
彼は彼女のために、一人で闇市場の勢力を潰し、かつて彼女を辱めた者を全員縛り上げ、彼女に触れた部位をことごとく切り落とした。
ある密売人が彼女に向かって口笛を吹いただけのことで、彼はその密輸ルートを一掃し、血は川となって流れた。
あの夜、血に染まった外套をまとって帰宅すると、彼は真っ先に浴室へ向かい、手のひらが真っ赤になるまで何度も何度も洗い、やっと彼女の頬に触れた。
十年間も苦楽を共にした腹心の部下が、「兄貴、女一人のためにここまでするなんて、割に合わないでしょう」とこっそり口にしただけで、彼は自らの手で処刑した。
銃声が響く瞬間、彼は霧子の目を優しく覆い、震える彼女のまつげに唇を押し当てながら、こう囁いた。
「割に合うかどうかは……俺が決める」
……
けれど、ある雨の夜、彼女は一報を受けた。
行人が、一人の女のために、「天新町」を焼き払ったという。
その天新町は、行人の勢力範囲の中で最も「穢れのない」土地。
全てを洗い清めた後、霧子と二人きりで隠れ住むと、約束してくれた場所だったのに――
* * *
綿霧子(わた きりこ)は、桐山行人(きりやま ゆきと)が海外の闇市場から救い出した美人だった。
彼は彼女のために、一人で闇市場の勢力を潰し、かつて彼女を辱めた者を全員縛り上げ、彼女に触れた部位をことごとく切り落とした。
ある密売人が彼女に向かって口笛を吹いただけのことで、彼はその密輸ルートを一掃し、血は川となって流れた。
彼女に清らかな未来を捧げるため、行人は絶頂期に権力を投げ打ち、裏方に身を引いたのも、ただ彼女を安心させたい一心だった。
誰もが彼女を幸運だと言った。
行人は愛を刃に鍛え上げ、その切っ先は外へ向けあらゆる茨を断ち切り、柄の部分だけを彼女に握らせた。
半年前、国中を騒がせた結婚式は、彼が全世界に突きつけた宣言だった。
花火が国の半分の夜空を焦がしたあの夜、行人は彼女の手を握りながら、こう言った。
「これからは、お前の世界にいるのは俺だけだ」
彼女はそれを信じた。
……
けれど、ある雨の夜、彼女は一報を受けた。
行人が露崎白雪(つゆざき しらゆき)のため、天新町を焼き払ったという。
白雪は、露崎川悟(つゆざき せんご)の妹だ。
川悟は行人の最も忠実な腹心で、長年の彼のそばに従い、最後は行人のために、蜂の巣のように撃たれて果てた。
死の間際、彼は白雪を行人に託したのだ。
天新町は、行人の勢力範囲の中で最も「穢れのない」土地。
全てを洗い清めた後、霧子と二人きりで隠れ住むと、約束してくれた場所だったのに――
霧子は黒い傘をさし、天新町に立った。
焦げ臭い匂いが立ち込め、地面には所狭しと人々が倒れていた。
彼女は一瞬で、焼け跡の中心に立つ行人を見つけた。
彼は白雪をしっかりと抱いている。白いスカートは血と泥に染まっているのに、彼の顔には微塵も嫌悪の色はない。
行人は片手で白雪をがっしりと抱き、もう片方の手には拳銃――銃口からはまだ硝煙が漂っていた。
銃口を向けられた男は地面に半跪き、口元から血を流しながら、かすれ声で笑い続けていた。
「桐山行人!……お前、そんなにこの女が好きなのかよ……お前が抱いてる奴が何者か、わかってんのか……」
言い終わらぬうちに、銃声が炸裂し、男はその場に崩れ落ちた。
行人は一瞥もくれず、彼女を抱えたまま車へ歩き出した。動作は優しく、白雪を後部座席に寝かせ、自分の上着を脱いでかけさえした。
その瞬間、霧子は彼が白雪を見つめる目をはっきり見た。
あまりにも見覚えのある眼差しだった。
あの年、霧子が行人の仇敵に廃船工場の大型水タンクに閉じ込められ、水位が上がり口や鼻が水に浸かっていく時。
行人が自らの身を顧みず、素手で鉄のドアを破り、霧子を抱きしめて守った時――霧子を見つめた、あの眼差しとそっくりだった。
彼が身をかがめて車に乗り込もうとした瞬間、ふと顔を上げた。
雨と揺らめく煙の向こう、傘の下の霧子を見て、目が合った。
結局、彼は何も言わず、そっと視線をそらし、抱いた女を連れて車内に座った。
エンジンが唸りを上げ、車輪が水たまりを轢き、雨の夜の闇へと速やかに消えていった。
霧子は車内に戻り、運転手に追跡を命じた。
行人の車は見知らぬ一軒家の前で止まり、彼は彼女を抱いて降り、急ぎ足で中へ消えた。
霧子は車内に座り、静かにそれを見つめていた。
彼女は行人の名義の不動産をすべて覚えている。どこにも彼女の名前が入っている。
ここだけは、彼女に何も知らされていなかった。
スマホが光った。部下からの報告だ。
【調べました。今夜、近藤家の者がバーに因縁をつけに来て、露崎さんを公然と辱め、店を壊しました。
行人様が現場に着いた時、露崎さんが地面に押さえつけられているところでした……堪えきれず、銃を使い、火を放ちました】
霧子はうつむいてタバコに火をつけた。
ゆっくりと煙を吐き、もやもやとした煙の向こう、灯りのついたあの窓を見つめた。
――本当によく似ている。あの頃、海外の汚い地下オークション場でのことと。
霧子は檻に鎖でつながれ、家畜のように展示され、初夜権はオークションにかけられ、穢らわしい言葉に晒されていた。
あの時の行人も、こうして乱入してきた。
彼は血路を切り開き、彼女を泥と絶望から引きずり出し、きれいに拭いて、そして言った。
「俺についてこい。これからは、誰もお前を傷つけさせない」
今、その全てを顧みない姿勢が、そっくりそのまま別の女に与えられている。
タバコは燃え尽き、指に熱さを感じて、彼女ははっと我に返り、そっと消した。
あの窓の灯りが、消えた。
霧子は視線を引き、瞳の奥は静寂に沈んでいた。
「行こう」
車は雨の夜を抜け、郊外の山間へ向かった。
神社では、蝋燭が燃えていて、半年前に二人が誓いを立てたこの場所を照らしていた。
彼があの日誓った言葉を、彼女は覚えている。
「神様の前に、この桐山行人はこの生涯、決して綿霧子に背かず」
霧子は空っぽの神社の中央に立った。
そして、進み出て――そこに祀られていたお神札、彼が自ら書いた誓いの絵馬を、一つ一つ、壊し、蹴り飛ばした。
最後に、隅に置いてあった予備のガソリン缶を手に取り、ぶちまけた。
彼女は数歩下がり、敷居の外に立って、ライターを取り出した。
手首を振ると、ライターはガソリンに浸った廃墟の中へ落ちていった。
灼熱の炎がぼうっと立ち上り、熱風が彼女の顔を襲った。
その時、後ろから温かい手が伸びてきて、彼女の冷たい手をそっと包み込んだ。
「怒った?」
霧子がゆっくりと振り向くと、行人が彼女のそばに立っていた。
「白雪は今夜、天新町で因縁をつけられた。俺は川悟に、彼女をしっかり面倒見ると約束した」
彼は彼女を見つめ、冷静な口調で言った。
「知ってるだろ。俺は死人に借りは作らない」
炎の明かりが霧子の顔を明るくしたり暗くしたりする。
彼女はその言葉を聞き終えると、そっと手を引き戻した。
炎の明かりが彼女の顔で躍動する中、声は冷たく響いた。
「……だから、彼女のために天新町を焼いたのね」
行人はしばらく沈黙し、口を開いた。
「霧子、天新町の件は俺が処理する。お前もそろそろ、わがままはやめてくれないか?」
「わがまま?」
霧子は笑った。笑いは目に届いていない。
「行人、あなたは私がどこから来たかを忘れているようね。私はわがままだけでなく、小賢しく、恨みを忘れない女よ」
彼女は小さく一歩前へ出て、彼を見上げた。
「露崎白雪は、あなたがちゃんと隠しておいたほうがいい。これ以上、あなたが彼女と一緒にいるのを見せないで」
行人の瞳の色がわずかに暗くなり、霧子の手を掴もうとした。
しかし彼女はもう離れ、口調は平板だった。
「じゃないと、彼女を殺すから」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)