雾の彼方に愛を葬りて第3話
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桐乃が目を覚ました時、包帯で覆われた額がまだ鈍く痛んでいた。
彼女は視線を落とし、わずかに膨らんだ下腹に手を当てると、点滴の針を乱暴に引き抜き、立ち上がって病室を出た。
階段を通りかかった時だった。
副院長を務める黎斗の親友が、声を潜めて彼を諫めているのが耳に入った。
「黎斗さん、卯月は今日ただ低血糖で倒れただけだ。でも桐乃さんはあと三十分遅れていたら、お腹の子は助からなかったんだ。
本当に卯月に心を奪われてるのか?鶴谷家は卯月家に潰されたんだぞ。桐乃さんにそんなことして、本当にいいのか?」
高い背を影に潜めた黎斗の指先には煙草が挟まれ、その火が明滅するたびに細長い双眸がより一層深く暗く見えた。
「千梨を手放すつもりはない。彼女こそが子供の本当の母親だからだ」
冷ややかで背筋を凍らせるほど静かな声で言い放つ。
「俺は桐乃を愛してる。でも千梨も八年間ずっと俺を愛してきた。あの頃は確かに若さに任せて過ちを犯した。だが今や卯月家は破産し、代償は十分に払った。
それに千梨は桐乃と争おうなんて考えたこともない。俺は桐乃に十鳥家の正妻としての地位と権勢を与え、千梨の子を俺の後継ぎにする。これでお互いに公平だ」
親友は言葉を失い、かろうじて絞り出す。
「だから桐乃さんに体外受精させる前に、わざと医者に命じて五度も掻爬させたのか?!一度流産すれば大出血で子宮すら失うことになるのに」
「そうすれば彼女が後で真相を知っても、中絶なんてできなくなる」
「だが考えなかったのか?真実を知った日、桐乃さんはもう二度と子供を授かれなくても、必ずあんたのもとを去るってことを!」
新たな真実が、桐乃のすでに傷だらけの心臓を容赦なく叩き潰した。
その場に硬直し、脳内は真っ白になる。
まさか黎斗が、自分の最後の逃げ道まで塞いでいたとは。
怒りで全身が震える。
詰め寄ろうとした足が、次の言葉を聞いて止まった。
「桐乃は俺を離れない」
黎斗は唇の端をゆるめ、偏執的な自信を滲ませる。
「彼女の母親はもう死んだ。俺こそがこの世界で最後の家族だ。俺が死なない限り、絶対に手放さない!」
足元から頭の先まで一気に冷えが駆け上がり、桐乃は悟った。
黎斗は本物の狂人だ。
知らないふりをして、この場を抜け出さなくては。
彼女は必死で病室へ戻ると、ちょうど看護師が薬を替えに来たところだった。
「傷の出血は止まってますが、こちらで再検査が必要です」
桐乃は疑いもせず、そのまま看護師についてMRI室へ向かった。
だが横たわった瞬間、共振台に拘束され、口に布を押し込まれる。
そのまま狭く閉ざされた機械の内部へ押し込まれ、看護師は勝手に出て行った。
胸の奥が沈み込み、異常を悟る。
必死にもがいて助けを求めたが、外から「この部屋は修理中なので、離れてください」と鍵をかける音がした。
広く暗い室内に、取り残されたのは桐乃ただひとり。
死のような静寂と圧迫感が全身を締め上げ、骨に染みついた恐怖で震えが止まらない。
まるで高校三年のあの日に戻ったかのようだった。
千梨が率いるグループに裸にされ、汚れた残飯を浴びせられた上で、学校の地下三階にある生物解剖室の鉄製の棺桶に閉じ込められた。
三日三晩も。
あの日以来、彼女は重度の閉所恐怖症を抱えることになった。
四年前、黎斗が半年分の貯金をはたいて心理医を受診させ、ようやく学生時代の心の傷を乗り越えられたのに。
今また狭い棺桶に逆戻りしたかのように、息苦しい呼吸と濡れた汗が彼女を窒息させる。
さらに腹部の鈍痛と、無視できない切実な尿意が絶望感を増していった。
……
閉じ込められて十七時間後、異変に気づいた当直医がようやく扉を開き、彼女を救い出した。
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