雲の彼方に散る愛第1話
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菅野雷星(すがの らいせい)はすべてのパイロットにとって、信仰にも等しい存在だった。
十六歳のときには、たった一人で人質救出任務をやり遂げている。二十五歳で北方航空基地の指揮官の座に就き、一万回を超える指揮でもミスは一度としてない。
雷星の辞書に「私情」の文字はない。あるのは「責務」のみだ。
星野遥(ほしの はるか)は五年を費やし、素手で百メートルの断崖を攀じ登り、高空の鋼索を渡り歩いて、ようやく高所恐怖症を克服した。
航空士官学校に合格し、首席で卒業を果たした。そのまま北方航空基地へと配属される。
あと五年の考査期間を無事に通過すれば、エースパイロットとなり、雷星のただ一人の飛行パートナーになれるはずだった。
ところが、この五年間に与えられた三度の任務は、いずれも惨憺たる結末を迎えることとなった。
一度目は雷の直撃を受けて全身から血を流し、二度目は家族全員が報復によって無惨に殺され、三度目は全身の骨が砕ける重傷を負った。
そのすべてが仕組まれた罠だった。遥がようやく黒幕を突き止めたとき、扉の向こうから耳に飛び込んできたのは、あの男の言葉だった。
「俺と遥が結婚すると知り、きっと受け入れられなかったのだろう。だから俺が伏せておいた。あの程度の過ちで、彼女の一生を台無しにする必要はない」
遥は、ただ静かに笑った。
そして、彼に生涯消えない悔恨を抱えさせることになる「三つのもの」を残して去っていった。
* * *
菅野雷星(すがの らいせい)はすべてのパイロットにとって、信仰にも等しい存在だった。
十六歳のときには、たった一人で人質救出任務をやり遂げている。二十五歳で北方航空基地の指揮官の座に就き、一万回を超える指揮でもミスは一度としてない。
雷星の辞書に「私情」の文字はない。あるのは「責務」のみだ。
星野遥(ほしの はるか)は五年を費やし、素手で百メートルの断崖を攀じ登り、高空の鋼索を渡り歩いて、ようやく高所恐怖症を克服した。
航空士官学校に合格し、首席で卒業を果たした。そのまま北方航空基地へと配属される。
あと五年の考査期間を無事に通過すれば、エースパイロットとなり、雷星のただ一人の飛行パートナーになれるはずだった。
ところが、この五年間に与えられた三度の任務は、いずれも惨憺たる結末を迎えることとなった。
一度目の任務は、雷星自らの命令によって下された。遥は国境の外から極秘の製剤を持ち帰ることになった。
しかし、唯一の飛行ルートで激しい雷雨に遭遇してしまう。遥は歯を食いしばり、戦闘機を操縦して雷雲を引き裂くように突破した。
製剤のケースは無傷のままだったが、機体はいたるところが激しく損傷していた。
二度目は、百人規模の拉致事件での航空支援任務だった。遥はすでに犯人の位置を特定し、あとは包囲網を締め上げるだけのところまで追い詰めていた。
その決定的な瞬間、暗号通信に一人の女の声が突如として割り込み、作戦計画を敵に晒してしまった。
雷星は間髪を入れず命令を下した。「プランBに移行。機体ごと目標ビルへ突入せよ。今すぐだ」
遥は一切の躊躇なく指示に従い、百名の人質は全員無事に救出された。
しかし、遥を窮地に陥れたあの女の声の主は、いつまで経っても突き止められないままだった。
三度目には、遥は紛争地帯への救援物資投下任務に派遣された。
ところが、最初に投下された荷物は――爆弾だった。
遥は自らの機体を爆弾に衝突させ、空中で起爆させるほかなかった。
無数の命を救ったにもかかわらず、その危険極まる操縦を理由に、一年間の飛行停止処分が下された。
五年の考査期間が終わり、遥は雷星の直属チームから外される運命に直面していた。
それでも、遥は諦めていなかった。
この一年、あらゆる伝手を使って調査を続け、掴んだ証拠はすべて同じ一つの名前を指し示していた。
井上愛椛(いのうえ あいか)――指令センターに籍を置く、一介のインターン生だった。
遥は証拠の束を抱え、雷星の執務室へと歩き出した。
胸の奥には、整理のつかない無念と悔しさが渦を巻いていた。
執務室の扉の向こうから、激しい口論の声が漏れてくる。雷星と、副官の中村蒼(なかむら あおい)の声だった。
蒼の声には、押し殺しきれない怒りが滲んでいた。
「今回のエースパイロットの栄誉を、戦闘機に乗ったことすらない愛椛さんにくれてやるつもりか?遥さんのあの三度の任務の裏で何があったか、私が知らないとでも思っているのか」
扉の外で、遥の足が凍りついた。
雷星の声には、感情の波一つ立たない。十年間聞き続け、神託のごとく崇めてきた、あの冷徹な声だった。
「俺は司令官だ。俺の評価は、常に公平かつ公正である」
「公平だと?遥さんの一度目の任務は、愛椛さんの特注の生理用品を届けることだったじゃないか。『国内製のものだとアレルギーが出る』――たったそれだけの理由で……
あの時の遥さんは、雷の直撃を受けて全身から血を流し、死にかけた状態で帰ってきたんだぞ。あんたが知らないはずがないだろう」
扉の外の遥は、見えない大きな手に心臓を鷲掴みにされたかのように、息をすることさえできなかった。
雷星の声には何の揺らぎもなく、むしろ当然のように愛椛を庇う響きすら滲んでいた。
「緊急事態だった。愛椛はアレルギーが出ると、ひどいことになる」
蒼の怒りは収まらない。
「じゃあ二度目はどうなんだ。愛椛さんがあんたを見つけられず、暗号通信で泣き喚いたせいで、遥さんの位置が敵にバレた。その後、犯人どもの報復で遥さんの両親は交通事故に遭わされ、弟と妹はあのクズ共に……」
蒼は、それ以上言葉を続けることができなかった。
遥もまた、これ以上聞いてなどいられなかった。
雷星の声に、ようやくわずかな疲労が滲む。それでも、愛椛を擁護する姿勢を崩そうとはしなかった。
「愛椛は暗い場所が怖いんだ。あの時は、俺がそばにいる必要があった。遥の家族の件については、すでに相応の補償は済ませてある」
遥は全身を震わせ、壁に縋らなければ立っていることすらできなかった。
無残に変わり果てた弟と妹の遺体写真が脳裏をよぎる。二度と繋がることのない両親の電話番号が、耳の奥で虚しく鳴っていた。
毎晩のように遥を叩き起こす、あの悪夢――そのすべてが、愛椛の「暗い場所が怖い」というたった一言のためだったというのか。
蒼は、悲しみと怒りを堪えきれない様子で声を絞り出した。
「それはそれとして、三度目は?愛椛さんが理由もなく救援物資を爆弾にすり替えたのは、地上の難民を皆殺しにするためか、それとも遥さんを殺すためか?
本来なら軍事法廷にかけられるべき罪だ。なぜあんたは揉み消した」
雷星の声が、ひとつ低くなった。
「愛椛はほんの一時、魔が差しただけだ。俺と遥が結婚すると知り、きっと受け入れられなかったのだろう。あの程度の過ちで、彼女の一生を台無しにする必要はない」
――あの程度の過ち、だと?
遥の震えは止まらなかった。
十年に及ぶ血みどろの努力も、幾度となく彷徨った生死の境も、そして家族四人を失ったことさえ、雷星の目にはただ「あの程度」のものに過ぎないというのか。
蒼の声から、抑えきれない皮肉が零れ落ちる。
「あんたが愛椛さんをそこまで特別扱いするのは、彼女があんたが初めて救い出した人質だからだろう?特別な意味がある、だからだろう?
だが――彼女を守るためなら、自分の結婚すら遥さんを繋ぎ止めるための道具にするとはな。司令官殿、あんたは遥さんを一体、何だと思っているんだ」
短い沈黙の後、雷星の声が再び響いた。相変わらず、それが当然の理であるかのようだ。
「遥はじきに俺の妻になる。婚姻届を出し次第、彼女を俺のただ一人の飛行パートナーとして申請するつもりだ。だが、愛椛は違う。彼女にはもう、何も残っていない」
蒼が一語一語、刻むように問いかけた。「……もし、遥さんがこのすべてを知ったら?それでも彼女は、あんたと結婚し、飛行パートナーになりたいと願うと思うか」
雷星の声が、一気に冷え込んだ。これ以上の議論を拒絶する、断固たる響きを伴っている。
「遥が知ることはない。それに、遥は十年間、俺を追いかけ続けてきた。彼女の望みは、もう十分すぎるほど叶えてやった。あと一ヶ月で結婚する。遥が俺のもとを離れることはない」
――彼は、すべて知っていたのだ。
――自分が十年間彼を愛し、彼のただ一人の飛行パートナーになることを夢見続けてきたと、知っていたのだ。
――だからこそ、家族四人を無惨に奪われ、狂ったように内通者を暴こうとしていた自分に、彼は耳元で何度も囁いたのだ。
「遥、もう怖がるな。これからは、俺がお前の帰る場所になる」
そして、もう一つ。さらに残酷な事実があった。
あの日、雷星が初めての実戦任務で最初に救い出した人質――それは愛椛ではなく、遥自身だったのだ。
それは遥にとって、悪夢の終わりであり、同時に、狂信にも似た想いの始まりでもあった。
病院に運ばれ、傷が癒えた頃、雷星も近くの施設で療養していると耳にした。
遥は、彼から授かった小さなお守りを握りしめ、こっそりと病室を抜け出した。けれど、遠目に見えたのは――雷星が一人の少女を、その胸にしっかと抱きしめている光景だった。
やがて、慌てて駆けつけた両親に連れ戻され、それきり――航空基地に入るまで、遥が彼と再会することは二度となかった。
遥の頬を、一筋、また一筋と、声のない涙が滑り落ちていく。
心に灯し続けた唯一の信仰も、骨の髄まで刻みつけた忠誠も、ようやく手が届くと信じていた夢も――そのすべてが、ただの償いと、哀れみに過ぎなかったのだ。
こんな馬鹿げたもののために、遥は青春を、健康を、そして最愛の家族の命までをも捧げてしまったのだ。
遥は背筋を伸ばし、頬に残った最後の涙の痕を拭い去った。
あの扉を、遥は押し開けなかった。
ただ静かに踵を返し、一歩ずつ自分のデスクへと戻ると、手元のすべての証拠を一つのファイルに束ね、最高軍事法廷の内部告発サイトへと送信した。
モニターに、一件の自動返信が浮かび上がった。
【告発資料を受理しました。これより審査手続きに移行します。審査完了まで、およそ三十営業日を要する見込みです】
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