雪降り、雲深く我を渡さず第1話
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三年前絢瀬若菜の両親は、鬼塚グループのビルで不可解な死を遂げていた。
上場を控えた鬼塚家は世論を鎮めるため、鬼塚隼人に絢瀬との結婚を強要した。
絢瀬はずっと、鬼塚が白鳥千早と結ばれなかったことを恨み、自分に怒りをぶつけているのだと思い込んでいた。そして彼女は両親の死の真相を探るため、鬼塚の全ての怒りと屈辱に耐えていた。
ある日、絢瀬は鬼塚のオフィス前で白鳥の甘えた声とその思わず漏れた言葉を耳にした。
「大丈夫よ。三年前、あの夫婦に私たちの関係を知られてしまって、このビルで死なせたんじゃない?」
絢瀬はよろめきながらその場を離れた。
「叔母さん、両親を殺した犯人が分かったわ。全て準備ができたから、一ヶ月後のヨーロッパ行きのチケット用意して」
* * *
「奥様、お待ちください。社長はただいま外出中でございます」
秘書の制止を振り切って、絢瀬若菜(あやせ わかな)は弁当箱を手にして、社長室まで足早に進んだ。
「大丈夫ですよ。お弁当を置いていくだけですから」
しかし、彼女がドアノブに手を掛けようとした瞬間、室内からはっきりと男のうめき声と、女の甘い喘ぎ声が聞こえてきた。
「あなた、すごい……もう、たまらない」
「我慢しなくていいよ。誰にもばれやしないから」
――女のほうは白鳥千早(しらとり ちはや)の声だ。
差し伸べた手が止まり、震えるように引き戻された。
三年前のあの日。自分の両親が鬼塚ビルで命を落とさなければ、今の鬼塚夫人は白鳥のはずだった。
引き返そうとしたが、その瞬間に白鳥の声が再び耳に飛び込んだ。「三年前、あの夫婦に私たちの関係を知られてしまって、このビルで死なせたんじゃない?」
誇るような、得意げな声だ。
絢瀬の表情が凍りつき、心の傷が一瞬で引き裂かれて、血が滴る感じだった。
弁当箱を握る手に力をこめ、彼女は逃げるようにその場を立ち去った。
鬼塚隼人(おにつか はやと)との結婚を承諾したのも、三年間彼の前で犬のように従順に振る舞い、嘲りを受け続けてきたのも、全てこの日のためだった。
すべて、両親の死の真相を暴くためだった。
今、ついに分かった。
犯人は白鳥と鬼塚だ。
体の震えが止まらない。すでに予想がついたはずだったが、それでも信じたくなかった。
エレベーターから降りた時、その瞳は虚ろなままで、頭には憎しみで満たされていた。正面から歩いてくる鬼塚にさえ気づかなかった。
「奥様!どうなさったのですか?」
「絢瀬!」鬼塚の冷たい声が鼓膜を突き刺す。
顔を上げると、男の怒りと疑いの混じった視線にぶつかった。
彼女はぽかんとした。眉をひそめて鬼塚とその側の社員を見比べ、混乱したように呟いた。「あなた……どうして外から?今、社長室には……」
「何を言ってる?」鬼塚は怪訝そうだ。
絢瀬はハッと気づいた。つまり、さっき社長室で白鳥と情事に耽っていた男は鬼塚ではない?
ならば、両親を殺したのも彼ではなかったのか?
胸の奥でふっと力が抜けた感覚があった。
次の瞬間、絢瀬の目には申し訳なさと、憐れみの色が浮かび上がった。
「隼人!お帰り!ずっと待ってたのよ」白鳥がハイヒールを鳴らし、鬼塚の腕をすり寄るように抱きしめた。
「あ~、靴が汚れちゃったわ。どうしよう?」
鬼塚が視線を落とすと、白鳥の黒のマットな革靴に白い液体が付着している。
白鳥はぺろりと舌を出し、「朝、牛乳をこぼしちゃってさ。これじゃ恥ずかしいわ」と言いながら、意味ありげに絢瀬を見た。
即座にその意図を悟った鬼塚は、冷たく命じた。「お前が拭け」
周囲の視線を浴びながら、絢瀬は静かにしゃがみ込んで、袖で白鳥の靴を丁寧に拭った。
ためらいがなく。
拒むこともなく。
立ち上がると、なぜか鬼塚の目の中の怒りはさらに燃え上がったように見えた。
白鳥は甘えた声で続ける。「わあ!お義姉さん、またスープ作ったの?うちのワンちゃん、ちょうど調子悪くて食欲なかったの。これ、もらってもいい?」
鬼塚が眉を上げ、声に威圧を込めて言った。「聞こえないのか?早くしろ」
絢瀬は終始うつむいたまま、鬼塚を見ようともしなかった。
そう言われれば、何も考えずに弁当箱を差し出した。
このスープは鬼塚が「飲みたい」とリクエストしたから、朝から煮込んだもの。
だが、犬が飲もうと、鬼塚が飲もうと、彼女にとっては同じことだ。どっちも人ではない。
「じゃ、私はこれで」
目の前のこの女はいつも通り従順で、瞳には一片の悲しみも見つからない。
その背中を見送りながら、鬼塚は思わず拳を握りしめた。
「隼人、私の家で映画でも見ない?」白鳥が首を傾げて聞いた。
「仕事がある」
「じゃあ、私も帰るね」
「待て」
帰ろうとする白鳥を呼び止め、鬼塚はその手からスープを受け取って、淡々と言った。「後で獣医を呼んでやるよ。病気の犬にスープは良くない」
周囲の社員たちは感嘆した。「鬼塚社長、白鳥さんのこと本当に溺愛してるよね。犬のことまで気遣うなんて……結婚さえしてなければ完璧なカップルだったなのに」
一方、絢瀬は家に帰ってからすぐ部屋に引きこもって、鍵をかけた後、電話をかけた。
「叔母さん、両親を殺した犯人が分かったわ。全て準備ができたから、一ヶ月後のヨーロッパ行きのチケット用意して」
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