雨の中、もう君とは歩けない第1話
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別れてから三年目、元嫁の篠宮栞(しのみや しおり)が子どもの手を引いて、俺の働いてる店に服を買いにやってきた。
俺は一瞬固まったが、いつもと変わらず丁寧に接客した。
距離感も言葉遣いもマニュアル通り。昔のことにはひと言も触れなかった。
栞はしばらく黙っていたが、ふと変形した俺の指をそっと握った。
「ここ、まだ痛む?」
俺は静かに袖口を引き、指先を隠して、もうなんともないと答えた。
その会話は俺たちの間には何ひとつ変わったことなどないみたいだった。
ただもう愛し合っていない、それだけだ。
* * *
もうなんともないだなんて、本当はそんなことはなかった。
俺は目を伏せ、変形した指の骨を見つめた。雨の日になると、一晩中眠れないほど痛む。
昔の俺なら、わざと大袈裟に言って、栞を心配させていたし、怪我を口実に甘えて、栞にキスをねだったりもした。
けれど、今はもうそんなことはしない。
人間、いつまでも相手にすがりついて、惨めな真似を続けられるわけじゃない。
栞は下唇を噛み、そっとため息をついた。
「圭吾、嘘はよくないよ。昔のあなた、すごく痛がりだったでしょ」
俺は眉を伏せ、感情を押し隠した。
「わかってるだろ。もう昔の話だ」
栞は困ったような顔をして、昔みたいに俺の手を取ろうとした。
「悪い人!ママ、その人に触っちゃダメ!帰ったらパパに言いつけるから!」
篠宮悠愛(しのみや ゆあ)が飛び込んできて、俺を突き飛ばした。そのまま力いっぱい、俺の太ももに噛みつく。痛みで足が痺れる。
「あっち行け!お前のせいだ!お前さえいなかったら、ママはパパに怒ったりしなかったんだ!パパはお前なんか大嫌いだ!ママを誘惑するな!
こいつの服なんか買っちゃダメ!汚いし臭い!こんなやつ、飢え死にすればいいんだ!」
悠愛はテーブルの上のハサミを掴むと、もう一度俺に向かって突っ込んできた。
「悠愛!やめなさい!」
栞が腕を掴んだ。悠安に本気で怒ったところを見たのはこれが初めてだった。
「謝りなさい」
「嫌だ!こいつがいなければ、パパは悲しまなかった!全部こいつが悪いんだ!」
悠愛は納得できないとばかりに俺を睨みつけている。今にも飛びかかってきそうだった。
かつて自分の手で育てた子ども。俺に驚くほどよく似たその顔を見ても、不思議なくらい、何の感情も湧かなかった。ただ、少し滑稽に思えただけだ。
栞は険しい顔で悠愛を俺の前まで引っ張ってくると、無理やり俺をパパと呼ばせようとした。
悠愛は小さな拳をぎゅっと握り、全身で拒絶する。
「違う!こいつは僕のパパじゃない!僕のパパのほうが背も高いし、かっこいい!こんな不細工じゃないもん!こいつなんか死んじゃえばいい!そしたら今のパパだって喜ぶ!」
「悠愛!」
栞は悠愛の手を掴んだまま、震えていた。俺は静かに彼女を制した。
「子どもなんだから、そこまでしなくていい。呼び方なんて、ただの呼び名だろ」
「いい人ぶらないで!」
悠愛は思い切り俺を突き飛ばすと、キッズ携帯に向かって泣きながら訴え始めた。
栞はスカートの裾を握りしめ、複雑な表情で振り返る。
「圭吾、悠愛は……」
疲れたように手首を揉んだ。
「もういい。仕事、何時に終わるの?待ってるから」
「いいよ」
俺は意識して距離を取り、腰をかがめて散らかったものを片づけ始めた。
「旦那さんが家で待ってるだろ」
「おや、篠宮社長じゃないですか」
奥から店長が出てきた。
俺を邪魔者でも見るように一瞥すると、嫌そうに足で小突き、すぐさま愛想笑いを浮かべる。
「新作がたくさん入ったんですよ。今日もご主人のお洋服をお探しですか?前回ご注文いただいたスーツも仕上がっております。よろしければ……
いやあ、人手不足でしてね。仕方なく、こんな使えない店員まで雇ってるんですよ。お気に召さないようでしたら、すぐクビにしますから」
栞は何も言わなかった。ただ、まっすぐ俺を見つめていた。
もしかすると、俺が何か言い返すのを待っていたのかもしれないが、残念ながら、その期待に応えるつもりはなかった。
俺は黙ったまま、自分の仕事を続けた。しばらくして、栞の目が赤くなった。
「必要ありません。この人はちゃんと働いています」
店長は声を上げて笑った。
「いやあ、篠宮社長は本当にお優しい。この男、手癖まで悪いんですよ。私だって本当なら雇いたくないくらいでして。
この前なんて、ご主人も言ってましたよ。大勢の前で高級腕時計を盗んだって。金に困りすぎて頭がおかしくなったんでしょうな」
そう言って、また俺を見下すように睨む。まるで恩を着せるような口調で続けた。
「まあ、篠宮社長がおっしゃるなら、引き続き働かせてやるよ」
俺は淡々と頷いた。何も感じなかった。
その瞬間、栞が突然、俺のつま先を踏みつけた。息を呑むほど綺麗な顔で、俺を睨みつける。
「圭吾、何か言い返しなよ」
俺が黙ったままでいると、焦ったように繰り返した。
「言い返しなよってば。昔のあなたは、あんなに自信に満ちてたじゃない。その気概はどこにいったの?違うって言って。盗んでないって、ちゃんと言いなよ」
俺は口元をわずかに歪め、彼女を押しのけた。
「店長の言うとおりだ。俺が盗んだ」
店長はそこでようやく、何かがおかしいと気づいたらしい。
「篠宮社長……もしかして、お知り合いで?」
「私は……」
「知りません」
栞の言葉を遮り、俺は顔を上げた。まっすぐ彼女の目を見つめる。
「篠宮社長とは、赤の他人です」
この身体になったのは、栞のせいだけどな。
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