雨しずくの調べ第3話
この話は約1363字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
その言葉に、匠哉の足がぴたりと止まった。
清佳は下腹をそっと押さえながら、匠哉の耳元に何かを囁いた。
彼は少しの沈黙のあと、ゆっくりと私の方を振り返る。
「聞月、お前、そんな手まで使って俺を騙すつもりか?
悪いが、どんなことがあっても、俺は清佳を見捨てない」
そう言い残して、二人は並んで去っていった。
一度も振り返ることなく。
その瞬間、私の中の何かが——静かに、音もなく崩れ落ちた。
望まれない子どもは、この世界に生まれてくるべきじゃない。
亀裂の入った夫婦関係は、遅かれ早かれ崩壊する運命なのだ。
手術を終えて家に戻っても、部屋の中は真っ暗なままだった。
それから何日経っても、匠哉は一度も家に帰ってこなかった。
私ももう、彼に連絡を取ろうとは思わなかった。
ただ静かに産後の養生を一人でこなしながら、離婚について弁護士に相談を始めた。
そして、次に彼の姿を見たのは——
やはり、清佳のSNSだった。
いつも写真を嫌がっていた匠哉が、カチューシャを頭にのせて、清佳と一緒にマタニティフォトに写っていた。
二人でお腹を優しく撫でながら、見つめ合う表情は、まるでこれから生まれてくる子を心から待ち望む理想的な夫婦のようだった。
私は、その投稿に何も言わず「いいね」を押した。
それから間もなく、何日も音沙汰のなかった匠哉から電話があった。
「今夜、実家で食事するから来てくれ」と。
私の荷物はすでにかなりの量をまとめてあった。
離婚協議書も弁護士の手でしっかりと準備済み。
だからこそ——彼とその家族に直接話す、ちょうど良い機会だと思い、承諾した。
けれど、綾野家に足を踏み入れた瞬間——
食卓の、私が五年間座ってきたあの席には、すでに別の人間が座っていた。
清佳だった。
義母は彼女の手を取り、にこにこと楽しげに会話していた。
五年間、私には一度も見せたことのない笑顔を浮かべながら。
もともと義母は、私のことをあまり気に入っていなかった。
五年も一緒に暮らしながら、子どもができなかった私に対して、冷たい視線を向けるのは日常だった。
かつては、今回の妊娠で少しは関係が良くなるかもと、ほんのわずかに期待したこともあった。
でも、もうそんな希望は必要ない。
私に気づいた清佳は、申し訳なさそうに微笑みながら言った。
「聞月、ごめんなさい。お義母様がどうしても私をここで安静にさせたいって言ってくれて……万が一のことがあったらって。だから、あまり気を悪くしないでね」
その芝居がかった声に、私は何の反応も見せず、黙って近くの椅子を引いて腰を下ろした。
義母が私の全身をじろじろと見回しながら、清佳の手をやさしく叩き、わざとらしい口調で言った。
「聞月、あなたね、匠哉と結婚してもう五年になるのに、いまだに子どもの一人も授からない。私はもう、孫を抱くのをこれ以上待てないのよ。
それにね、清佳ちゃんは本当に気の毒な子よ。若くしてご主人に先立たれて、一人で苦労してきた。だからこそ、匠哉がそばにいて、本当に助かったのよ。
しかも今は、清佳ちゃんのお腹には綾野家の孫がいるのよ。ここで面倒を見るのも、当然のことでしょう?あなたも、異論はないわよね?」
これは相談などではない。
ただの宣言であり、圧力だ。
でも、私はもう清佳が綾野家にどう関わろうが、何の興味もなかった。
私は静かに頷いた。
「はい、異論はありません」
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