雨しずくの調べ第1話
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夫の亡き親友の妻が、妊娠検査の写真をSNSに投稿した。
【あなたの精子のおかげで、私にも自分の赤ちゃんができました】
「父親」欄には、夫・綾野匠哉(あやのたくや)の名前がはっきりと記載されている。
私がコメントしたのは、ただの「?」マークだけだった。
すると、匠哉からすぐに電話がかかってきた。
「お前さ、人としての情がなさすぎだろ!彼女は夫を亡くして、ずっと一人で寂しく生きてきたんだ。ただ、子どもがいれば少しは心が和らぐって思っただけだよ。それの何が悪い?
それに、真木悠真(まきゆうま)は俺の親友だったんだぞ。親友の妻を助けるのは、男として当然の義務だろ?それが義理ってもんだ、わかんねぇのかよ!」
それから間もなくして、夫の亡き親友の妻は、今度は高級マンションの写真をアップした。
【そばにいてくれてありがとう。あなたのおかげで、また家という温もりを思い出せました】
キッチンで忙しそうに立ち働く匠哉の後ろ姿が、写真の中でやけに鮮明だった。
そのとき、私は静かに思った。
——この結婚も、もう終わりにしよう。
* * *
夫の亡き親友の妻が、妊娠検査の写真をSNSに投稿した。
【あなたの精子のおかげで、私にも自分の赤ちゃんができました】
「父親」欄には、夫・綾野匠哉(あやのたくや)の名前がはっきりと記載されている。
私がコメントしたのは、ただの「?」マークだけだった。
すると、匠哉からすぐに電話がかかってきた。
「お前さ、人としての情がなさすぎだろ!彼女は夫を亡くして、ずっと一人で寂しく生きてきたんだ。ただ、子どもがいれば少しは心が和らぐって思っただけだよ。それの何が悪い?
それに、真木悠真(まきゆうま)は俺の親友だったんだぞ。親友の妻を助けるのは、男として当然の義務だろ?それが義理ってもんだ、わかんねぇのかよ!」
それから間もなくして、夫の亡き親友の妻は、今度は高級マンションの写真をアップした。
【そばにいてくれてありがとう。あなたのおかげで、また家という温もりを思い出せました】
キッチンで忙しそうに立ち働く匠哉の後ろ姿が、写真の中でやけに鮮明だった。
そのとき、私は静かに思った。
——この結婚も、もう終わりにしよう。
匠哉が帰宅したとき、私はちょうど明日予定している中絶手術の予約を終えたばかりだった。
彼と結婚して五年。ずっと子どもを授かれずにいた。
数日前、ようやく妊娠していることが分かった。もう二ヶ月目だった。
本当は、結婚記念日にサプライズとして伝えるつもりだった。
だけど——もう、その必要はなさそうだ。
匠哉は袋をテーブルに置き、私に抱きつこうと歩み寄ってきた。
「なあ、これ……お前の好きな鮭がゆ、わざわざ買ってきたんだ。ほら、温かいうちに食べて」
袋の中を覗くと、米粒はまばらで、鮭の身も見つけるのが難しいほどの貧相な代物だった。
きっと誰かの食べ残しでも押しつけられたのだろう。
私はその手からそっと身を引き、袋を少し遠ざけた。
「いらない。食欲ないから」
彼は私がいつものように照れているだけだと勘違いしたのか、勝手におかゆを器に移し、スプーンを口元に差し出してきた。
「もう、意地張らないでって。これ、昔から一番好きだったじゃん?」
冷めきったおかゆから立ち上る独特の臭みが鼻につき、私はたまらずトイレに駆け込んで吐きそうになった。
背中に伸びてきた彼の手を、私は思いきりはね除けた。目に涙を浮かべながら、睨むように彼を見上げた。
「触らないで!」
あまりの拒絶に苛立ったのか、匠哉の声が一気に荒くなる。
「お前さ、いったいどうしたいわけ?こっちは頭下げてまで機嫌取ってんのに、いつまでふてくされてんだよ!
俺はな、あの投稿に皮肉なんか言ったこと、まだ水に流してやってんのに!」
その堂々とした物言いに、まるで私が悪者であるかのような錯覚さえ覚えた。
私は信じられないという表情で彼を見つめた。唇が震え、声もかすれた。
「じゃあ何?他の女があなたの子どもを妊娠したことを、私が笑顔で祝福するのが『妻の器』ってこと?」
匠哉はうんざりしたようにネクタイを緩めた。
「悠真が死んでから、清佳は寂しかったんだよ。ただ子どもが欲しかっただけじゃないか。俺は悠真の親友なんだぞ?その奥さんの願いを叶えてやるのは、当然の責任だろ。
しかもな、俺と清佳が肉体関係持ったわけじゃない。ただ、精子を一つ提供しただけだ。それのどこが悪いってんだよ?
お前さ、まるで嫉妬に狂った女みたいだぞ!」
嫉妬に狂った女?
悠真が亡くなったばかりの頃、私だって香坂清佳(こうさかさやか)のことを不憫に思って、よく家に招いて一緒に食事をした。
電球が切れた、給湯器の調子が悪い、そんな些細なことでも、私たちは夫婦で彼女の家へ出向いて助けていた。
清佳が目を潤ませながら「悠真が生きてたら、こんな迷惑かけずに済んだのに」なんて言った時も、私は笑って「気にしないで、大したことじゃないから」と返した。
匠哉も真剣な顔で頷いていた。「何かあったら、何でも言ってくれ。俺は絶対に断らないから」と。
あの頃は——それを、親友への義理だと、私は信じて疑わなかった。
けれど、いつの間にか様子が変わっていた。
私の知らないうちに、匠哉は彼女の買い物袋を代わりに運び、靴箱を組み立て、火傷をした彼女に薬を届けに行っていた。
そんなこと、私には一度もしてくれたことがないのに。
少しでも不満を口にすれば、「親友の奥さんだから助けて当然だろ」と一蹴された。
まさか、子どもまで作るなんて。
その子が生まれて「パパ」「ママ」と彼と清佳を呼ぶ日が来たら、私はいったい何になるの?
私たちの未来の子どもは?家庭は?私の居場所は?
話し合おうと思っていた。けれど、電話越しのあの罵声を聞いた瞬間、その気持ちは跡形もなく消えていた。
そして今、目の前にいる彼の態度を見て確信した。
もう、何を言っても無駄だ。
匠哉は一気に言いたいことをまくし立て、最後に吐き捨てるように言った。
「少しは反省しろよ。いつまでもその了見の狭さ、いい加減にしてくれ!」
そのままドアを乱暴に閉めて、出て行った。
こんな夜に、行き先なんて一つしかない。
やっぱり——まもなくして清佳のSNSが更新された。
写真には、匠哉の手が彼女の丸みを帯びた腹に優しく添えられている。
【パパが今夜も会いに来てくれた。ここにしか、家の温もりはないんだって】
その投稿を見た私は、ふっと笑ってしまった。自分の愚かさに。
こんなにも腐りきった結婚生活に、なぜ今まで気づかなかったのかと。
「兄嫁」と呼んでいたはずの彼女のことを、匠哉が「清佳」と名前で呼びはじめたとき。
その瞬間に気づくべきだったのだ。
だったら、もう迷う必要なんてない。
損切りするなら、今だ。
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