離婚理由は誰も私の好物を覚えていなかったから第3話
この話は約1872字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
私はうなずくだけで、キッチンへ行って水を一杯注いだ。
その時、冷蔵庫の扉に貼られていた新しい付箋に気づく。
【社長は胃が弱いので、朝はアイスコーヒーを飲まないでくださいね】
その文字をしばらく見つめてから冷蔵庫を開けると、昨日残しておいたネギがなくなっていた。
珠希がそばへ来て、私の顔色をうかがうように口を開く。
「清佳さん、悪気があったわけじゃないんです。でも、冷蔵庫の中にちょっと匂いがこもっていたので、ほかの食材に移ったらよくないと思って、それで……」
すぐに直也が珠希をかばった。
「ママ、珠希姉ちゃんだってわざとじゃないよ。だって、ネギって臭いじゃん!」
「そう」それだけ答えて、私は冷蔵庫を閉めた。
まだ幼いとはいえ、直也は人の顔色には敏感だ。
だから、私があまりにも平然としていたせいか、一瞬きょとんとしたものの、それでも、すぐにテーブルへ戻って朝食を食べ始めた。
珠希だけは、どこか不思議そうに私を見ている。
以前の私なら、こんなことがあれば多少は不快な顔をしたからだろう。
そして決まって、翔吾が間に入ってこう言った。
「清佳、そんなに気にすることじゃないだろ」
気にしすぎ。翔吾はいつも、そう言って片づけた。
珠希が自由に家へ出入りすることを嫌がっても、気にしすぎ。
珠希が直也の幼稚園の先生と連絡先を交換したことに引っかかっても、やっぱり気にしすぎ。
でも、もうどうでもよかった。
朝食を終え、珠希が自分から直也を幼稚園まで送ると言い出したところに、ちょうど弁護士から離婚協議書の草案をメールで送ったと連絡が入ったので、私はベランダの椅子に座り、一項目ずつ内容を確認していくことにした。
親権の項目に、少しだけ目が止まる。
生まれたばかりの直也は、13日間も保育器に入っていた。
その間、私は昼も夜も病院で待ち続け、ろくに眠ることさえできなかった。
3歳になるまではほとんど毎月のように体調を崩し、夜中に熱を出すたび、抱きかかえて救急外来へ駆け込んだ。
昔は、「世界で一番ママが好き」と言ってくれたこともあった。
けれど、それもいつの間にか忘れてしまったらしい。
昼過ぎ、幼稚園の先生から保護者のグループへ、金曜日に親子工作の行事があるため、両親のどちらか一人は参加してほしいという内容の連絡が入った。
返信しようとした矢先、直也のキッズ携帯からの着信が入る。
「ママ、金曜日は来なくていいからね」
「どうして?」
「もう先生に、珠希姉ちゃんが来るって言ったから」
少し黙ってから、私は言った。「でも、それは親子で参加する行事でしょ?」
直也は当然のように言い放つ。
「だって珠希姉ちゃんのほうが工作上手だもん。ママはいつも遅いし、僕にハサミも使わせてくれないじゃん」
電話の向こうで、友達が直也を呼ぶ声がした。
「ママ、怒らないでね。それにママだって、家にいる方が好きでしょ?」
通話が切れても、私はベランダの椅子に座ったまま、しばらくそこから動かなかった。
午後になると翔吾が帰ってきたので、てっきり親子行事の話をしに来たのだと思った。
ところが、開口一番に言われたのは、「金曜日、直也が珠希と参加したいって言ってるから、清佳は行かなくていいよ」という言葉だった。
私はそっと目を閉じた。
翔吾は私が怒ると思ったのか、先手を打つように声を低くする。
「清佳、誰と行きたいかは直也が決めることだから、あんまり深く考えるな」
思わず小さく笑った。「そうね」
すると、意外そうな顔をした翔吾。「いいのか?」
「うん」
ほっとした様子を見せた翔吾だったが、ふと私の手元に目をやった途端、表情を変えた。
「清佳、指輪は?」
いずれ話さなければならないのなら、今ここで伝えてしまおう。
私は立ち上がり、翔吾をまっすぐ見た。
「翔吾。私たち、離……」
最後まで言い終える前に、翔吾のスマホが鳴った。
電話に出た翔吾の顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「そうか。引き受けてくれて助かるよ。当日は直也のこと、よろしくな」
通話を終えても、その顔にはまだ笑みが残っていた。
翔吾は改めて私を見ると、なだめるように言った。
「清佳、珠希が直也の行事に付き添ってくれることになったから、その日はゆっくり休んでて。それと、傷がついたら、また新しいのを買えばいいんだから、家事をするときに指輪は外さなくていいぞ」
私が何か言う前に、翔吾はそのまま家を出ていった。
金曜日、私は幼稚園へ行かなかったけれど、代わりに珠希が参加した。
その日のインスタに、直也が珠希の隣で、少しいびつな紙の家を掲げている写真が投稿される。
【初めての親子行事。緊張したけど、楽しかった!】
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