隠れ妻の座はもういらない第3話
この話は約2244字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
朝8時。
私が起きた時、修一はすでに大学へ行っていた。
テーブルには、彼が珍しく用意した朝食と一枚のメモが置かれていた。
【リビングは業者に片付けさせた。子供みたいなワガママは言わず、しっかり寝て、起きたら朝食を食えよ】
修一の筆跡は、息を呑むほど端正だ。どこまでも清らかで気品があり、彼の知的で整った佇まいそのものだった。
メモを見つめながら、温かいご飯と出汁巻き卵を口へ運ぶ。胸にポッカリと空いた穴が、少しずつ塞がっていくような気がした。
だが、それもほんの束の間の錯覚に過ぎなかった。
ピロンと通知音が鳴り、スマートフォンの画面に美波のSNSの投稿が表示された。
私の目の前にあるご飯と出汁巻き卵が、彼女の食卓にも寸分違わず並んでいた。
しかも、私よりも量が多い。
写真にはこんな一言が添えられていた。【超ラッキー!学生と一緒に朝食を食べてくれる最高の指導教員をついにゲット!】
写真に写っている黄色と青のペアのお椀は、見覚えがありすぎて目に刺さった。
それは去年、修一が私を旅行に連れて行ってくれた時、自ら選んでくれたものだ。
このお椀の明るい色合いが、よく私に似ていると言って。
私は口では照れ隠しに文句を言いながらも、胸の中は喜びで満ちていた。
使うのがもったいなくて、宝物のように戸棚に飾り、わざわざ隣に二人のツーショット写真を置いていたほどだ。
その後、あの写真はなぜか忽然と姿を消してしまった。
残されたのは、このペアのお椀だけ。
そして今、彼はそのお椀を使って、美波にご飯をよそっているのだ。
これまで何度もあったことだ。私がまだ退社していないというのに、彼から催促の電話がかかってくる。
「美波がまた胃が痛いって言ってるんだ。お前の作るお汁は美味いから、飲みたいってせがんできてさ」
あれは、私が風邪をこじらせて熱を出し、体温が40度まで上がった2日目のことだった。
朝起きた時、病院まで車で送ってくれないかと彼に頼んだ。
彼は鏡に向かってネクタイを締め直しながら言った。
「午前中に会議があるんだ。会議が終わったら、送っていくよ」
私はその言葉を信じ、会社に座って一分一秒と待ち続けた。
ポケットからスマートフォンを取り出しては、またしまうのを繰り返した。
同僚に「彼氏からの連絡待ち?」と冷やかされ、私は苦笑いを浮かべて唇を噛んだ。
頭がガンガンと割れるように痛む。
待ち焦がれた彼からの着信音が鳴った瞬間、私はバッグをひっつかみ、今にもオフィスを飛び出そうとしていた。
しかし、彼は私が熱を出していることなど、すっかり忘れていたようだ。
私を病院に送る約束も。
ただ、自分の教え子のためにお汁を作れと命じることしか頭になかった。
お汁を作る。
彼は全く分かっていない。
昆布と鰹節から丁寧に出汁を引き、具材の下ごしらえをしてから根菜が柔らかくなるまでじっくり煮込むのに、丸2時間はかかるということを。
言われた通りにお汁を作り終えた頃には、病院の予約時間はとうに過ぎていた。
彼は胃が冷えやすい体質だった。だから私が何十回も失敗を重ねた末に、生姜と大根を組み合わせて体を温めるレシピをようやく見つけ出したのだ。
それなのに彼は、私の身を削るような真心を、いともあっさりと教え子の機嫌を取るためのダシに使ってしまった。
スマートフォンの振動で、私は我に返った。
「結城さんですか?大学の事務局です。先日の筆記試験を通過されましたので、午後から面接にお越しください」
「はい、時間通りに伺います」
私が到着すると、廊下には他の応募者もいた。
なんと、その中に美波もいた。
彼女はニコニコしながら近づいてきて、声を潜めて言った。
「咲希さん、本当は来ない方がよかったのに。わざわざ足を運んだって、どうせ無駄骨なんだから。この採用枠、最初から内定が決まってるのよ」
「どういう意味?」
彼女は私を上から下までジロジロと見て、軽蔑の眼差しを隠そうともしなかった。
「高橋先生があなたのことを馬鹿だってずっと言ってるのも無理ないわね。ここまで言っても分からないの?この枠、先生が私にくれたのよ」
私が言い返そうとしたその時、ちょうど面接室の中から名前を呼ばれた。
中に入って席に着く。
面接官は申し訳なさそうに不採用の通知書を差し出し、気まずげに頭を下げた。「結城さん、本来ならあなたの経歴はこの事務職にぴったりだったのですが、急遽内部の人間を採用することになりまして。本当に申し訳ありません」
次の瞬間、スマートフォンに美波から推薦状の画像が送られてきた。
その末尾、推薦人の欄に記されていた名前は――紛れもなく、「高橋修一」だった。
私は見えない手に首を絞められたように、一言も言葉を絞り出せなかった。
スマートフォンが震え続けている。
修一からの、自分自身すら騙せないような言い訳のメッセージだった。
【咲希、このチャンスは美波に譲ってやってくれないか?あいつは両親もいなくて生活も苦しいんだ。この枠を譲ってやれば、今後の学費や生活費の目処が立って、もうアルバイトで人の顔色を窺う必要もなくなる。お前も昔は同じように苦労したんだから、わかってくれるよな?】
【どうして何も言わないんだ?】
その後は何もなかった。
電話もメッセージもない。
私に対する彼の忍耐力は、たったのこの数秒しかなかった。
私は目を閉じた。
再び目を開けた時、ずっと連絡を取っていなかったかつての恩師に電話をかけ、そして数年遅れの航空券を予約した。
家に帰ると、美波がソファに座って、美味しそうにフルーツを口に運んでいた。
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