隠れ妻の座はもういらない第1話
この話は約2688字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
秘密の結婚生活も3年目。
家の靴箱には、相変わらず三足のスリッパが並んでいる。
高橋修一(たかはし しゅういち)のもの、学生のもの、そして友人のもの。
私、結城咲希(ゆうき さき)の分だけが、ぽつんと欠けている。
彼が新しい使い捨てスリッパを差し出してきたとき、私は淡々とした声で口にした。
「私が買ったあのスリッパは?」
彼は私を見ようともせず、「あいつらが来る前に捨てた」と答えた。
私は「そう」とだけ声を漏らした。
胸の奥がツンと痛むのを押し殺し、何気ない風を装って尋ねる。「美波も今回来たの?」
「いや、来てない」
彼は嘘をついている。
なぜなら、ついさっき星野美波(ほしの みなみ)から挑発するようなメッセージが届いたばかりだからだ。
【実のところ、あなたってすごく可哀想。私たちが遊びに行くたび、清掃員のふりをしてゴミを持って下へ降りなきゃいけないんだから。
考えたことない?彼は関係を公表できないんじゃなくて、ただ公表したくないだけかもしれないって】
スマートフォンの画面を消し、私は洗面所へ向かった。
洗面台の鏡にべったりと残された無数の手形は、まるで何かの宣戦布告のようだった。
修一のそばを通り過ぎる時、なぜ私に嘘をついたのか。
それに、なぜ彼のトークアプリで一番上にピン留めされているのが私ではなく、星のアイコンの彼女なのかと彼を問い詰めなかった。
リビングで彼に付き合ってテレビのサッカー中継を観て、窓の外の星をしばらく眺めたあと、私は金庫の中に隠されていたスリッパを取り出し、笑みを浮かべながら彼の前に押し出した。
「そんなに彼女が大切なら、いつまでもコソコソ隠してないで、堂々と表に出してあげればいいのに」
* * *
星の刺繍が施されたそのスリッパを見て、修一の口元の笑みが一瞬引きつった。
それでも、彼はまだ言い訳を試みた。
「美波がうちで一番悪ふざけの過ぎる学生だって、お前も知ってるだろう。ただのいたずらさ」
そう言いながら、彼の指がすっと絡みつき、昔のように私の掌を軽くくすぐってきた。
私は何の反応も示さなかった。
ただ、聞きたかった。
どういう図太い神経をしていれば、一介の学生が、指導教員の家を自由に出入りできるのか。
二人は洗面所で何をして、どれだけ長く留まれば、鏡にあれほど無数の痕跡を残せるのか。
出かかった言葉を、私はグッと飲み込んだ。
絡みつく彼の手も避けた。
私は彼を見つめた。「つまり、あなたの学生は、家の暗証番号も、寝室の暗証番号も、挙句の果てには金庫の暗証番号まで知っているってこと?」
彼は口を固く結び、何も答えなかった。
私を見つめるその瞳には、どこか非難めいた色が滲んでいる。
あの金庫は、私が初任給で彼に贈ったプレゼントだった。
将来、俺たちの婚姻届受理証明書や家の権利書、家族の通帳、そして子どもの出生届受理証明書をここに入れようと、彼は言っていた。
だが今、私の履くスリッパは、この広い家のどこにも置き場所がない。
彼の学生のスリッパは、平然と金庫の中に隠されているというのに。
「最初はスリッパ、次は暗証番号、今度は金庫の話か?咲希、お前は一体何が言いたいんだ?」
痛いところを突かれるたび、彼は決まって話をすり替える。
そして、すべての責任を私に押し付ける。
私が彼に問い詰めた時だって、そうだった。
「いつになったら、この家に堂々と私のスリッパを置けるようになるの?あなたの学生や同僚、友人が遊びに来るたびに、スリッパを捨てられずに済むのはいつなの?」
彼はいつも笑って答えた。「俺たちの関係を公表する日が来たらね」
「じゃあ、いつ公表するの?」
彼は眼鏡を押し上げながら言った。「俺が正教授に昇進するまで待ってくれ。今、自分の教え子と結婚したなんて知られたら、これまでの努力がすべて水の泡になってしまう……」
だから私は、歯を食いしばって待ち続けた。
彼が遠距離恋愛は嫌だと言うから、私は海外留学のチャンスを諦めた。
彼が「胃が痛む」とこぼしたから、私は民間企業で受付の仕事を選んだ。残業も夜更かしもせず、ただ彼の胃を労わるためだけに。
彼の生活に溶け込み、共通の話題を持つために、私は仕事さえ辞め、死に物狂いで彼が勤める大学の職員採用試験の勉強に励んだ。
それなのに、昇進を果たせば、今度は重要なプロジェクトを勝ち取らなければと言い、プロジェクトが終われば、今度は学内の優秀職員表彰を狙うと言い出した。
この3年間、私はまるで雑巾のようだった。
必要な場所を、必要な時に拭くためだけの存在。
彼の同級生、友人、同僚が家で食事会を開くとなれば、仕事を休んで買い出しに行くのは私で、テーブルから溢れんばかりのごちそうを用意するのも私。
料理を作り終え、皿に美しく盛り付け、ワインの準備まで済ませた後、私はパンパンに膨らんだゴミ袋を提げ、マスクをして階段を降りていく。
10フロア分もの階段。
1階降りるごとに、私は考えずにはいられなかった。
スリッパはもう捨てたから、彼らが家に入って靴を履き替える時、何も怪しまれないはずだ。
まな板は元の場所に戻したし、冷蔵庫の食材も補充した。枕に落ちていた髪の毛すら一本残らず拾い集め、ゴミ箱に捨ててすべて下に持ってきたから、証拠は何も残っていないはずだ、と。
あの日々。私は彼の同僚から見れば、料理のうまい家政婦さんだった。
彼の友人から見れば、よく働くお手伝いさんだった。
ただ一つ、彼が対外的に紹介する「高橋夫人」であることだけは絶対にあり得なかった。
それなのに、私がどれほど長く耐えて待ち望んだその居場所を、まさか一人の女子学生にいとも容易く奪われてしまうなんて。
彼は私の存在がバレるのを恐れ、私のスリッパをゴミ箱に捨てた。
彼は美波の存在が私にバレるのを恐れ、彼女のスリッパを金庫に隠した。
私がこれほど尽くし、これほど寛容に振る舞って手に入れた場所は、所詮ゴミ箱と同じだったのだ。
まったく、笑わせてくれる。
そんな回想は、聞き慣れた男の声に遮られた。
「お前もかつては俺の教え子だったんだから、学生の苦労は分かるだろう。美波は身寄りがない孤児で、両親がいないんだ。俺は少し面倒を見てやっているだけだ。変な勘繰りをするのはやめてくれないか?」
修一は少し眉をひそめた。
顔に浮かんだ苛立ちを押し殺すと、彼は息を吐き、私の腰に手を回した。
「分かった、もう怒るな。約束するよ。結婚3周年の記念日に、俺たちの関係を公表しよう」
私は数秒だけ動きを止めた。
そして、彼の指を一本ずつ引き剥がした。
私は顔を上げ、修一の訝しむような視線を真っ向から見据えた。「もう公表しなくていいわ。私たち、離婚しましょう」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)