闇の果て、無期の別れ第3話
この話は約2159字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
翌日、怜司の母、冴子から電話があった。
冴子の声は不機嫌だった。「今夜六時、怜司を連れてこちらに来なさい」
雪乃は「はい」と気のない返事をしたが、あの家に戻るなど、億劫でしかない。
冴子と会う時はいつも、気まずい思いをするからだ。
結婚した当初は、雪乃も冴子に歩み寄ろうと努力した。だが、冴子はそんな雪乃をまったく寄せ付けなかった。
怜司は朝早くから若葉を連れて会社に行った。雪乃の連絡先はとっくに怜司によってブロックされている。
若葉を守るため、怜司は会社の入り口に「神崎雪乃と犬、入るべからず」という立て看板を特注した。
この一件により、雪乃は社交界の物笑いの種に成り下がった。
今、雪乃が怜司に連絡を取る唯一の方法は会社に電話し、受付に取り次いでもらうことだけだった。
紆余曲折の末、ようやく怜司が電話に出た。
「要件を言え」
一言だけだったが、雪乃には、それが怜司が情事に耽っている時特有の低い声だとわかった。
「冴子さんが今夜、実家に来るようにって」
言い終わった瞬間、電話は切れた。
雪乃はスマホを持ったまま、通話していた時の姿勢で固まった。
脳裏には先ほど通話中の数秒間に聞こえた音が制御不能に蘇る。
若葉のか細い、喘ぐような声が不意に耳に飛び込んできた。
この結婚生活の五年間、怜司の女は数え切れないほどいた。
だが、彼は決して一線を越えず、本気になることもなかった。
しかし今回は……
雪乃は鈍い痛みが走る胸を押さえ、不快感を和らげようとした。
すべての無念が、「もういい」という一言に変わった。
実家へ向かう道中、雪乃は屋敷から百メートルほど離れた場所に車を停め、怜司を待った。
夜の帳が下り、街灯が一つ、また一つと灯り始めた頃、ようやく怜司の車がやってきた。
車の窓が下り、怜司の気品ある横顔が現れた。
雪乃も彼女の車の窓を下ろし、何か言おうとしたが、怜司の助手席にまだ人が座っていることに気づいた。
怜司はわざと見せつけるように隣の人に言った。「薬は塗ったか?」
若葉は嬉しそうに笑い、もとより清純なその顔立ちが、いっそう可憐に映った。「塗りました。でも、医者が少なくとも半月はダメだって……」
怜司は仕方なさそうに若葉の髪を撫で、その声は諦めと甘さを含んでいた。「俺のせいだな」
雪乃はもちろん二人の会話の意味を理解した。彼女はハンドルを握る手に力を込め、張り詰めた声を出した。「必ずそんな方法で私を辱めなければならないの?」
怜司はそこで初めて雪乃に視線を向けた。先ほどまでの優しい声は今嘲りに満ちていた。「若葉と普通に会話していただけだ。自意識過剰も甚だしい」
雪乃はもう二人を見ず、車の窓を上げてから横を向き、目尻の涙を拭った。
高遠家の屋敷の前に車が停まり、雪乃は怜司の後ろに続く若葉を見た。
「彼女も一緒に?」
怜司は意に介さず若葉の手を握った。「俺の秘書だ。何か問題でも?」
若葉の口角がきゅっと上がった。月明かりを映した瞳がきらりと光った。「雪乃、私が来たのはね、まだ仕事が残ってたから。別に、他には何もないんだから……変なこと考えないでね?」
明るい街灯が若葉の首にかかるブルーダイヤのネックレスをきらびやかに照らした。
雪乃はそのネックレスを静かに見つめ、怜司がこのネックレスを雪乃につけてくれた時の光景が、またも脳裏に蘇った。
しばらくして、雪乃は頷き、できるだけ平然を装って肩をすくめた。「そうね、あなたの言う通りだわ」
怜司は美しい眉をひそめた。理由はわからないが、心に妙な感情が芽生えた。
怜司はもう雪乃を見ず、若葉の手を強く握った。「放っておけ。行くぞ」
二人の背中が雪乃の視界から消えていった。
どれくらい門の外に立っていただろうか。冷たい風が吹き抜け、雪乃はコートの前を掻き合わせ、音にならない溜息がこぼれた。
門を開けてダイニングルームに入ると、冴子が若葉に料理を取り分けていた。「若葉ちゃん、怜司の会社の切り盛り、大変ね。このオマール海老、今日空輸されたばかりで新鮮よ。召し上がれ……」
若葉は恐縮した。「ありがとうございます、冴子さん。高遠社長のためなら当然ですわ」
若葉の殊勝な言葉を聞き、冴子はさらに上機嫌になった。「もうすぐ大晦日でしょう。今年は特例で帰省しないと聞いたわ。よかったら大晦日の夜、うちで食事しない?」
若葉は怜司に視線を送り、少し恥ずかしそうに微笑んだ。「よろしいんですか?ご迷惑では?」
怜司は若葉にジュースを注いだ。「もちろんだ。君はこの数日、会社の入札の件で疲れている。しっかり食べろ……」
彼らが和気藹々としている様子を見て、雪乃はふと思い出した。彼女が初めて怜司の仲間たちに紹介された時、怜司の仲間うちには、雪乃のことを「本気の相手」ではなく「遊び」だと高を括る者もおり、食事の席でしきりに酒を勧めてきた。
あの時、怜司は酒の入ったグラスを押しやり、新しい空のグラスにジュースを注いだ。「雪乃は酒が飲めない。怖がらせるな」
一度の事故が雪乃のすべてを奪い去った。
冴子がこのような眼差しをすることは稀だった。彼女が若葉に向ける満足げで慈愛に満ちた眼差しは、まるで若葉こそが自分の嫁であるかのようだった。
雪乃はその場に立ち尽くし、邪魔をすることもできず、このままこっそりと立ち去るべきか迷っていた。
「雪乃様、お帰りなさいませ」
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