和紙文長亭で振り返れば、故人は遠くに · 第3話設定≡

長亭で振り返れば、故人は遠くに第3話

この話は約2759字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。

昼食会が始まると、宴席に集まった人々はグラスを手にし、次々と社交を始めた。

陽平と彩花の関係がただものではないと察した人々は、彩花に次々とグラスを差し出す。

「早見さんは本当に若くして有能ですね。世界中を魅了するチェロ演奏、ずっと拝見したいと思っていたんですが、まさか今日こうしてお会いできるとは」

「どうぞ、この一杯は私から。いつか生の演奏を聴ける日を楽しみにしています」

彩花は丁寧に微笑み、差し出された酒を受け取ろうとしたが、その瞬間、陽平が横から奪い取り、一気に飲み干した。

「彼女はお酒が飲めない。彼女への乾杯は全部俺が代わりに受ける」

陽平の一言に、彩花へ酒を勧めようとしていた人々は一斉に息を呑んだ。あの坂井家だ、誰がそんな相手に無理を通そうとするだろう。

だがすぐに獲物を変えたように、今度は愛莉へと視線が向けられた。

「坂井夫人、坂井社長がこれほど立派なのは、きっとあなたのような優秀な内助の功があってこそでしょう。よろしければ、この一杯、お付き合いいただけませんか?」

そう言うと、無意識に陽平の顔色をうかがった。だが今回は、陽平はまるで何も聞こえないかのように、席に座ったまま彩花の皿に料理を取り分けている。

その様子に男は胸をなで下ろした。

愛莉はその光景を見て、自嘲気味に唇を歪めた。見て見ぬふりをするだろうとは思っていたが、まさか表面すら取り繕おうともしないとは。

愛莉は咳払いすると、手を振って断った。

「すみません、私、アルコールアレルギーで飲めないんです」

グラスを差し出していた男は眉をひそめる。

「そんな言い訳しなくてもいいじゃないですか。たった一杯だけでいいんです、顔を立ててくださいよ」

愛莉は怯まずに答えた。

「本当に飲めないんです。申し訳ありません」

言い終える前に、陽平の顔に不快そうな色が走った。彼はグラスをゆっくりと回し、氷のような声を低く響かせる。

「外に出れば、坂井家を背負っているんだ」

「たかが一杯だ、飲めばいい。坂井家に恥をかかせるな」

愛莉は思わず反論しかけたが、そのとき優翔が声を張り上げた。

「ママ、ウソつくなよ!本当は飲みたくないだけでしょ?優翔だってそんなママは情けなく思うよ!」

その声は多くの客の耳に届き、周囲の視線が一斉に愛莉へ注がれた。宴席の空気すら変わり、彼女の周りに人垣ができる。

秩序を乱さぬため、愛莉は奥歯を噛みしめ、グラスを手にして一気に流し込んだ。

喉を焼くような刺激に、胃がひっくり返るような苦しみが襲う。わずか一杯で全身に真っ赤な発疹が広がり、息もまともにできなくなった。胸を押さえて喘ぐ姿に、周囲が騒然となる。

「坂井夫人!大丈夫ですか!

救急車を!早く!アルコールアレルギーは命に関わるぞ!」

その声にやっと陽平が顔を上げ、珍しく焦りの色を浮かべた。

「本当に飲むかよ、バカか?俺が病院に連れて行く」

彼女に手を伸ばしかけた瞬間、隣で彩花が足を押さえて涙声で叫ぶ。

「陽平、足を挫いちゃった……痛いの……!」

振り返った陽平の視線が迷う。だが愛莉の息はどんどん弱り、時間がないことは明白だった。

「彩花、俺は……」

陽平が言葉を紡ぎかけたとき、優翔が走り寄って彼の手を掴んだ。

「パパ!彩花おばちゃんを早く病院に!すごく痛がって声も出せないんだよ!」

その一言が引き金となり、陽平は決断を下す。彩花を抱き上げると、そのまま宴会場を飛び出していった。

残されたのは「救急車を呼んでやってくれ、ありがとう」という言葉だけ。

七年間連れ添った夫婦なのに、陽平には救急車を呼ぶ時間すら惜しかったのだ……

愛莉の呼吸は次第に弱くなり、ついに意識を失って倒れた。

目を開けると、そこは病院のベッド。傍らには誰一人いない。そばにいたのは、たまたま薬を替えに来た看護師だけだった。

看護師は目を開いた愛莉を見て、不思議そうに首をかしげる。

「お目覚めですか?ご家族は?こんなに長く意識がなかったのに、誰もあなたを見に来ませんでしたよ。病気だと知らないのでしょうか?」

ただの問いかけだったが、愛莉の胸はきりきりと痛んだ。陽平のためらわぬ後ろ姿と、彩花しか目に入らない優翔を思い出す。

愛莉は苦笑しながら答えた。

「家族はいません。唯一の親族は、もう亡くなりましたから」

看護師は慌てて口を押さえたが、謝る前に、廊下から大きな騒ぎ声が響いた。思わず愛莉は首を伸ばして外を窺う。

看護師は溜息まじりに呟いた。

「見なくても分かりますよ。きっと坂井家のあの方がまた大騒ぎしているんでしょう。

坂井家は確かに大財閥ですけど、やることが大げさすぎるんです。知らないかもしれないけど、昨日、あのチェリストの彩花さんが足をくじいたって言って、あなたとほぼ同じ時間に病院に来たんです。坂井社長はそれはもう心配しきりで、息子さんと一緒に一晩中病室に付きっきりでしたよ。

でもCTの結果、何の異常もなかったんです!それでも坂井社長は市内の専門家を全員病院に呼び出して、彼女を診察させたのよ。専門家たちも坂井家の権力を笠に着て、病気じゃないのに病気だと言わざるを得なかったんですよ」

愛莉は視線を落とし、苦笑を浮かべる。

「だって、彩花は坂井社長の本命の女ですもの。彼が心配するのも当然でしょう」

「本命の女って……聞いた話じゃ、もう結婚されてるんでしょ?結局は二股じゃないですか」

愛莉はそれ以上何も答えなかった。なぜなら、陽平との婚姻届すら偽物なのだ。立場上、むしろ自分の立場のほうが第三者に近い。

点滴が終わるのを見て、愛莉は一人で退院手続きを済ませた。

別荘に戻ると、陽平がソファに座って腕時計を見ていた。誰かを待っているようだった。

愛莉は何も言わずに二階へ上がろうとしたが、陽平に呼び止められた。

「昨日お前を病院に送らなかったのは……彩花が小さい頃から体が弱くて、処置が遅れると後遺症が残るかもしれないと思ったからだ」

愛莉は淡々と振り返りもせず答える。

「うん、分かってる。わざわざ説明しなくていいよ」

陽平は目の前の愛莉を見て、一瞬驚きを浮かべた。彼女が怒って大騒ぎするだろうと思っていたのに、こんな反応が返ってくるとは思わなかったのだ。

彼はしばらく沈黙した後、再び言った。

「ごめん。昨日、お前に酒を飲ませるべきじゃなかった。本当にアルコールアレルギーだとは知らなかったんだ。もし知っていたら、俺は……」

愛莉は彼の言葉を遮り、苦笑しながら口を開いた。

「あなたが知らなかったのは、私がアルコールアレルギーだということだけじゃないわ。私のこと、私のすべてを、あなたは何も知らない。

だって、あなたは私を愛していないから。だから、私を理解しようと思ったことなんてなかったんでしょう?だから、謝る必要はないわ。

元々、あなたは何も悪くない。ただ、私を愛していないだけだよ」

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)

第4話は公式アプリで

当サイトでの試し読みはここまでです。アプリをインストールし、下のアプリ用コードを入力すると、この作品の第4話からそのまま読み進められます。

R61404
  1. 下のボタンから公式アプリをインストールします(無料)。
  2. アプリを開き、「コードを入力」にこのコードを入れると、この作品が本棚に入ります。
iPhone・iPad
で入手
Android
で入手

アプリで第4話を読む

作品ページへ戻る 当サイトに掲載しているのは試し読みの章だけです。