長亭で振り返れば、故人は遠くに第1話
この話は約3071字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
木崎愛莉(きざき あいり)は漁村で暮らす海女だった。村から一歩も出たことのない彼女は、なんと世界屈指の財閥の大物、坂井陽平(さかい ようへい)の妻となった。
彼は四分の一にヨーロッパ王室の血を引き、大統領でさえも頭を下げる存在だった。
結婚後、愛莉はさらに坂井家に長男坂井優翔(なかお はると)を産んだ。
権力も地位も兼ね備えた夫に、素直で賢い息子までいるとあって、誰もが彼女の幸運を羨んだ。
だが愛莉が生まれ変わったあとは、ただ二つのことしかしなかった。
一つ目は、戸籍抹消の手続きを行い、陽平の前から永遠に姿を消すこと。
二つ目は、息子・優翔の養育権を手放すことだった。
* * *
木崎愛莉(きざき あいり)は漁村で暮らす海女だった。村から一歩も出たことのない彼女は、なんと世界屈指の財閥の大物、坂井陽平(さかい ようへい)の妻となった。
彼は四分の一にヨーロッパ王室の血を引き、大統領でさえも頭を下げる存在だった。
結婚後、愛莉はさらに坂井家に長男坂井優翔(なかお はると)を産んだ。
権力も地位も兼ね備えた夫に、素直で賢い息子までいるとあって、誰もが彼女の幸運を羨んだ。
だが愛莉が生まれ変わったあとは、ただ二つのことしかしなかった。
一つ目は、戸籍抹消の手続きを行い、陽平の前から永遠に姿を消すこと。
二つ目は、息子・優翔の養育権を手放すことだった。
「木崎さん、本当にいいんですか?抹消手続きには十五日かかります。一度完了すれば、『愛莉』という名前は、この世から完全に消えてしまいます」
「いいんです」愛莉の声は揺るぎなかった。
前世で、皆が羨んだこの結婚は、実際には彼女の父の命と引き換えで成り立っていた。
津波の夜、投身自殺を図った陽平を救うため、愛莉の父は命を差し出した。
父の唯一の願いは「娘が幸せになれるように」ということだった。
その恩を返そうと、陽平は愛莉を妻に迎えたのだ。
皆に祝福されて嫁いだ日は、幸せの始まりのはずだった。
しかし――愛莉が知ったのは、陽平の心の中にずっと早見彩花(はやみ あやか)がいるということだった。
海へ飛び込んだ理由も、チェロの夢を選び自分を捨てた彩花のせいだった。
結婚後、陽平は一度も愛莉に触れず、冷たい他人のように振る舞った。
ただ一度、酔ったときに彼女を彩花と勘違いして抱いたことがあり、その結果が優翔が生まれた。
それからは少しずつ態度が軟らいでいき、ようやく彼女に笑顔を見せ始めていた。
愛莉は「ようやく心を溶かせた」と信じていたが――彩花が帰国した瞬間、全てが終わった。
陽平の瞳には彩花しか映らなくなり、息子すら母親と認めたのは彩花だった。
やがて彩花は家に入り込み、愛莉は「正妻」という名ばかりで、一生家政婦のように扱われ続けた。
五十歳のときに耐えかねて区役所に離婚の相談をしたが、その時初めて知った。
――陽平との婚姻届は偽造で、自分は正式に妻ではなかったということを。
さらに、優翔の戸籍上の母親は最初から彩花になっていた。
つまり、愛莉は最初から「部外者」だった。身分すら与えられない存在だったのだ。
現実を知った彼女は精神が崩壊し、区役所を飛び出した直後、車にはねられ命を落とした。
次に目を開いた瞬間、戻っていたのは二十九歳の時。彩花がちょうど帰国したその日だった。
愛莉は苦い記憶を振り払うように時計へ目を落とし、時刻を確認した。もうすぐだ。
予想通り、次の瞬間スマホに速報が届いた。
【世界的チェリスト彩花帰国、坂井家後継者が子供連れて、高級車を贈り愛を告白。二人は極秘結婚し子どもがいるとの噂】
ニュースを開くと、映し出された映像には陽平が彩花の手を取り、覆い布を派手に剥ぎ取る姿。
そこに現れたのはピカピカのマセラティ。群衆の口が一斉に開いた。
「すごっ!やっぱり財閥って桁違い……あの車、ネットでしか見たことないよ!二千万円は軽く超えてる!」
タイミング良く、陽平の甘い声が響いた。
「彩花、俺の体も車も、全部お前のものだ」
彩花は真っ赤になって慌てて首を振った。
「陽平、これは高すぎるわ。受け取れないよ」
陽平が口を開く前に、優翔が自ら一歩前に出て、彩花の服の裾を引っ張りながら甘えた声で言った。
「彩花おばちゃん、受け取ってよ。パパ、本当は島を買おうとしてたんだけど、びっくりさせちゃうと思って車にしたんだ。
もし受け取ってくれなきゃ、パパも僕も悲しいよ」
それを聞いた彩花は、困ったように微笑んで仕方なく頷いた。
映像が終わると同時に、愛莉は唇を皮肉に吊り上げた。
胸の奥が針で刺されるように痛む。
結婚して七年。陽平からは一度も贈り物など無く、優しい言葉すらかけてもらったことはなかった。
その上、心を込めて育てた息子までもが、自分を召使いのように扱い嫌悪していた。
彼女は「父と子の性格だから」と諦めかけていたが、実際は――二人とも優しさを別の女に与えていただけだった。
愛莉はそれ以上見ず、車を走らせ邸宅へ戻った。
玄関を開けた瞬間、目に映ったのは、自分の服やアクセサリーがすべて外に捨てられている光景だった。
何事か尋ねようとした矢先、彩花の持ち物が次々と中へ運び込まれていった。
彼女が部屋から現れると、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね、木崎さん。この部屋、日当たりがいいって何気なく言ったら、陽平が気を利かせて……無理やり私を住ませてくれたの」
それを聞いた愛莉の声は冷え切っていた。
「早見さんがどこで暮らそうと自由ですが、これは私の持ち物です。あなたが勝手に処分する権利はありません」
彩花が答える前に、陽平の声が背後から飛んできた。
「俺がやらせたんだ」
「彩花には日当たりのいい部屋が必要なんだよ。新居は改装中で住めないし、お前の部屋がちょうど条件に合っていた。それで何か問題あるか?」
「でも、これは私の物です。いくらあなたでも勝手に……」
言い終える前に、優翔が花束を抱えて割り込んだ。
「彩花おばちゃん、ママの言うことなんか気にしないで。家の中でママの言葉なんて、お手伝いさんより軽いんだから」
「先生が言ってたよ。今日は母の日だから、一番大切な人にカーネーションを贈るんだって」
そう言って彼は少し照れながら身をよじる。
「だから僕、この花を彩花おばちゃんにあげたいんだ」
挑発するように愛莉へ笑みを見せた彩花は、すぐに陽平へ困った顔を向けた。
「陽平、これはよくないんじゃない?優翔のことは大好きだけど、でも、木崎さんが優翔の本当のお母さんでしょう?」
陽平は甘さを滲ませた声音で答えた。
「彩花、優翔が渡したいなら受け取ってやれ。子供の気持ちは真っ直ぐなんだ。好きな相手にあげるだけだよ」
彩花は仕方なさそうに花を受け取り、しゃがんで優翔の頭を撫でた。
「ありがとう優翔。まさかおばちゃんが、本当のママより大事だと思ってくれるなんて」
「うんうん!僕にとって彩花おばちゃんこそ本当のママだよ」
陽平は愛莉の顔色を見て眉をひそめ、軽く叱った。
「優翔、お母さんが横にいるだろう?そんなこと言ったら傷つく」
だが優翔は唇を突き出し、声を張り上げた。
「やだ!僕は彩花おばちゃんをママにする!ママは絶対彩花おばちゃんがいい!」
その光景を見ても、愛莉はもう叱りつけはしなかった。
ただ静かに荷物を抱え、玄関へ足を運んだ。
前世でも今世でも、優翔は同じだった。
どれだけ尽くしても、「母」と認めるのはあの女だけ。
愛莉は乾いた笑みを浮かべた。こんな場面は、前の人生で百回以上も見せつけられてきたのだ。
ならば――陽平と優翔が心から望む通りに。
彼ら父子の世界から、完全に消えてやるのだ。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)