鏡花水月に咲く愛第3話
この話は約2051字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
夏織の体は、思考よりも先に動いていた。
人が集まる方へと駆け出す。
果てしなく長いサーキットを走るうち、心臓が胸から飛び出しそうになり、肺まで痛みが襲う。
拓海の笑顔、怒った顔、悲しそうな顔、ふざけて彼女を笑わせてくれた時の顔――
そのすべてが、夏織の脳裏をよぎる。
「患者を愛してはいけない」
医者として、絶対に破ってはいけない掟。
それでも夏織は、気持ちを止めることができなかった。
あの日、夏織が強盗に襲われたとき、命を顧みず自分の前に立ちはだかったのは拓海だった。
「絶対にケンカしちゃダメ」と言われていたから、頭から血を流しても、拓海は一度も手を出さなかった。
最後には真っ青な顔で、夏織の腕の中に倒れ込んだ。
唇には、微笑みさえ浮かんでいた。
「夏織、怖がらなくていい。俺がいるから」
自分の命さえ惜しまず、守ってくれた彼。
どうして、そんな彼を好きにならずにいられようか。
――拓海さえ生きていてくれれば、それだけでよかった。
けれど、夏織がやっとの思いで事故現場にたどり着いた時、目にしたのは――綾乃の膝枕で目を閉じる拓海の姿だった。
拓海の足には枝が貫通し、顔にも傷跡がある。
一方の綾乃は、腕にかすり傷がある程度。
綾乃は泣き叫び、取り乱していた。
「お医者さん!早く新堂さんを助けてください!」
「私を守ってくれなかったら、こんなにひどい怪我にならなかったのに……」
――時が巻き戻ったような感覚に襲われる。
命を懸けて守る相手が、もう自分ではないことを痛感させられる瞬間だった。
夏織は呆然と立ち尽くし、無表情で拓海が救急車に運ばれるのを見ていた。
その後を、泣きじゃくる綾乃が追いかけていく。
すべてが自分とはもう無関係になったようだった。
それでも一応「恋人」として、夏織も病院に向かった。
手術室の前で、綾乃は椅子に座って泣き続け、夏織は隣で無表情のまま静かに座っていた。
知らない人が見たら、綾乃こそが拓海の恋人だと思うかもしれない。
新堂夫人が駆けつけてきたとき、彼女が目にしたのは冷淡な夏織の姿だった。
怒りで震えながら、夫人は夏織に近づき、いきなり頬を平手打ちした。
乾いた音がその場の空気を切り裂いた。
夏織は顔をそらし、白い頬にはくっきりと手形が残る。
「夏織!私がしっかり拓海を見ててくれって言ったわよね?これがあなたの言う『しっかり見てる』ってこと?」
「誰が彼をレースに行かせていいって言ったのよ!」
「私にはこの子しかいないのに……もし拓海に何かあったら、絶対に許さないから!」
新堂夫人の夫は早くに亡くなり、それ以来母子二人きりで生きてきた。
今も全身を震わせ、目には涙が溜まっている。
慌てて立ち上がった綾乃が、新堂夫人の隣に寄り添い、小さな声で言う。
「ごめんなさい、全部私のせいなんです……私を守ってくれようとしたから、新堂さんがこんな目に遭ったんです……」
さっきまで激怒していた新堂夫人は、綾乃を見るなり別人のような優しい顔になった。
「そんなこと言わないの、バカな子ね。拓海があなたを守るのは当然のことよ」
「私は小さい頃から、拓海に『弱い者を守りなさい』って教えてきたの。その通りにできてるわね」
新堂夫人は、夏織が今まで一度も見たことのないような優しい笑顔を浮かべ、綾乃の手を引いて隣に座らせた。
そして、綾乃の頬に流れる涙を優しくぬぐってあげる。
綾乃は呆然としたまま、思わず夏織の方を見た。
だが夏織は口元に皮肉な笑みを浮かべ、無言でその場を離れた。
――もう、ここに自分の居場所はどこにもないのだと悟った。
夏織は家に戻り、自分の荷物をまとめ、拓海の私物もきちんと整理した。
この家は、かつて拓海が「ふたりの愛の巣」と言って贈ってくれたものだった。
でも、愛がなくなった今となっては、ただの無駄な空間でしかない。
夏織は自分の物は全部捨てた。見ているだけで吐き気がした。
拓海の物をどうするか迷ったが、それを処分する権利はない。
仕方なく、新堂家に返しに行くことにした。
玄関先で、偶然新堂夫人の会話が聞こえてきた。
「本当に間違いないの?」
「間違いないです!私、確かに聞いたんです。あの綾乃さん、きっと白石家のお嬢様ですよ!」
「今は身分を隠して、拓海のことを調べてるみたいですけど、絶対に彼女に夏織さんとの関係を知られないようにしてください。もしバレたら、この縁談も台無しになっちゃいますから」
「ふん、心配いらないわ。あの夏織なんて親もいない子が、五年も拓海のそばにいられたのは奇跡よ。自分の身の程ってものを知ってほしいわ。うちの拓海がどれだけ『素晴らしい子』かもわからないのよ」
――素晴らしい?
夏織は思わず鼻で笑った。
五年前、彼女が出会ったばかりの拓海は、まるで森の原始人のようで、すぐ怒鳴り散らす、世間の笑いものだった。
今では新堂夫人にとって「素晴らしい息子」になったらしい。
それにしても、自分に妹ができた覚えはない。
夏織はスマホでさっきの会話を録音したばかりだった。
そして、拓海の私物をそのままゴミ箱に放り込み、背を向けて家を出た。
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