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鏡花水月に咲く愛第1話

この話は約2386字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

橘夏織(たちばな かおり)は新堂拓海(しんどう たくみ)の臨床心理士として出会い、やがて恋人となった。

ふたりの熱くロマンチックな愛は、誰もが羨む理想のカップルだと称賛されていた。

だが、拓海が白石家の令嬢との婚約を発表したその瞬間、夏織はようやく悟る。

かつて自分のために肋骨を三本も折って守ってくれた、あの少年はもうどこにもいないのだと。

恋にすっかり絶望した夏織は、静かに彼の前から姿を消す。

――それから時が経ち、拓海はようやく気づく。

本当に自分が婚約しようとしていた白石家の令嬢は、最初から「他の誰か」ではなかったことに。

けれど、そのときの夏織の隣には、すでに別の男性がいた……

* * *

世間では、新堂家の御曹司・新堂拓海(しんどう たくみ)は気難しく、気分屋で、誰に対しても冷淡だと言われている。

だが、橘夏織(たちばな かおり)がそばにいるときだけは、まるで従順な猫のように穏やかになるのだった。

五年の歳月をかけて、カウンセラーと患者から始まったふたりの関係は、やがてお互いにとってかけがえのない存在となり、その愛は業界でも有名な美談となっていた。

父の遺影の前で、拓海は母親に無理やり三本の肋骨を折られた。

母は涙を流しながら手に持っていた棒を床に落とし、「出ていきなさい。もう新堂の家には戻らないで」と、彼を家から追い出した。

それでも拓海が最初にしたことは、病院へ行くことではなかった。

傷だらけの体で、土砂降りの雨の中、彼はただ一人、夏織の家の前まで歩いて行ったのだった。

その後五年、彼はほとんど母親と顔を合わせることはなく、ただ夏織のためだけに生きていた。

だが、パーティーで夏織の出自を嘲笑する者が現れると、拓海はまるで狂犬のようにその相手を殴り倒してしまう。

けれど、夏織が彼の名前を呼ぶと、その狂犬は首輪をつけられたかのように大人しく膝をつくのだった。

血まみれのまま夏織の前に跪き、泣きながら「自分を捨てないでくれ」と懇願し、挙句の果てには自ら胸にナイフを突き立てて謝罪するほど。

その愛は激しく、ロマンティックで、夏織自身も夢のような運命だと感じていた。

――だが、ある日のこと。

レストランを出ようとした夏織は、偶然、拓海の会話を耳にしてしまう。

「本気で橘夏織と一生一緒にいるつもりか?お前、白石家の令嬢とは許嫁だろ」

「忘れてないよ」

「母さんが彼女を俺の治療のために呼んだだけだ。今まで白石家の令嬢が海外にいたから、付き合ってただけ。そろそろ終わりにするつもりだ」

拓海の声から、かつての優しさや思いやりは一切消えていた。

そこにあったのは、ただ冷ややかな嘲笑だけ。

まるで王様が足元で滑稽に跳ねる道化を見下ろすような、残酷な響きだった。

夏織の身体はその場で固まった。

「いいじゃん拓海、外で遊んでも家にはお嬢様が待ってるんだしさ」

「でもさ、夏織ちゃん、本気でお前のこと好きみたいだよ?もし付きまとわれたらどうすんの?」

「その時は外に囲っとけばいいだけ。うちみたいな家なら、家に一人、外にも一人、そんなの当たり前だろ。ちゃんとお嬢様にバレなきゃ何の問題もないし」

――まるで、夏織がただの都合のいい「外の女」でしかないかのように、あっさりと言い捨てられた。

「夏織は、俺の最低な部分を何度も見てきたからな。あの顔を見ると、正直うんざりする時もある」

拓海の冷たい言葉が何度も頭の中で反響し、夏織の心を切り刻む。

気がつけば、ふたりが初めて出会った日の記憶が鮮やかによみがえっていた。

あの頃の拓海は、いま皆に理想の御曹司だと称賛されている姿とは違い、いつでも「躁うつ」の発作が起きてもおかしくない、不安定な青年だった。

そして、夏織は海外の大学を卒業したばかりの臨床心理士。

年齢も近く、専門知識もあった夏織を、拓海の母親が選び、彼の専属カウンセラーとして雇われたのが始まりだった。

五年という歳月――

発作を起こせば、夏織は一晩中付き添った。

物を壊せば、黙って後片付けをした。

誰かを傷つけてしまえば、代わりに頭を下げて謝った。

眠れない夜には、朝までそばで物語を語り続けた。

五年間、夏織は拓海のために心を砕き、ついには彼を明るく社交的な「理想の紳士」へと導いてきた。

だが、今や自分は彼の華やかな未来にとって、ただの「重荷」なのだと痛感する。

夏織は呆然と壁にもたれ、冷たい涙が頬を伝う。

――そんなとき、スマホが震えた。画面には新堂夫人からのメッセージ。

【夏織さん、先ほどお話しした件、どうかご一考ください】

ほんの三十分前、夏織はその申し出をきっぱりと断っていた。

【一千万円で、拓海の前から姿を消し、白石家の令嬢との婚約を見届けてほしい】

それでも、夏織は信じていた。拓海の愛は、一千万円なんかよりずっと重いはずだと。

――彼との愛は、お金では計れないものだと。

涙を拭い、夏織はゆっくりとレストランを出た。

【もう考える必要はありません。承諾します】

その後も新堂夫人から何か返信が届いていたが、夏織はもう見なかった。

エントランスを抜けると、見覚えのある車が待っている。

運転手がすぐさま駆け寄ってきて、丁寧に告げる。

「お嬢様、ご両親はもう帰国の飛行機に乗られました」

夏織は指輪に視線を落とす。

それは三年前、拓海が自分に告白したときにくれたものだった。

ただの銀の指輪——だけど、彼が自分の手で作ってくれた大切なもの。

あのときは、これが拓海の真心の証だと信じて疑わなかった。

だが今になってみれば、自分が彼にとってどんな存在なのか、まるでこの指輪のように、質素で取るに足らないものだったのだ。

夏織は車に乗り込み、低い声で命じた。

「両親に伝えて。新堂家との縁談は、もう白紙に戻すって」

世間では「白石家のお嬢様」と呼ばれているけれど、実は白石という姓ではなく、母の姓を名乗っているだけ――

彼女の本当の名前は、「橘夏織」だった。

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