酒は寝かせる、愛は寝かせない第1話
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朝倉蓮(あさくら れん)はワイン醸造家だ。
彼は、何をするにも酒造りと同じで、じっくり時間をかけるべきだと信じている。
5年間の恋人生活で、私――高瀬真帆(たかせ まほ)が蓮を必要としたときに、彼が間に合ったことは一度もなかった。
「急がば回れ」は彼の口癖だった。
交際5周年の旅行。彼が空港に現れるのがあまりに遅れたせいで、私が3年も楽しみにしていた北欧のオーロラを見逃した。
婚約の席では、彼がホテルに現れるのがあまりに遅すぎたせいで、すべての段取りが台無しになっていた。
両親は何度も頭を下げ、親戚や友人一人ひとりに謝り続けた。
私が40度の高熱を出したときも、彼の帰宅はあまりに遅すぎた。
医師には、あと少し遅れていたら、脳に一生残る障害が出ていたかもしれないと言われた。
私は、それも彼の職業柄なのだと思っていた。
信号無視によって出された青切符を見るまでは。
どの違反区間も、蓮が水野紗季(みずの さき)の家へ向かうときに必ず通る道だった。
昨日、ワイナリーへ蓮を訪ねたときのことを思い出した。
販売担当の紗季が、首をかしげながら私のそばへ寄ってきた。
「真帆さん、羨ましいです。蓮さんって、本当に優しいですよね。
昨日、うちが停電して一人で怖がってないか心配してくれて、5分で駆けつけてくれたんです……
10キロもある道のりなのに」
私は切符を見つめた。
胸の奥が引き裂かれていくようだった。
もういい。
彼がそんなつもりなら、私も待つのをやめよう。
* * *
着替えを済ませてクローゼットを出ると、蓮からLINEが届いていた。
【家にある酒造技能検定の資料、持ってきてくれ。紗季が使うから】
【返事は?あまり待たせるんじゃない】
……
わずか1分の間に、蓮から十数件ものメッセージが届いた。
返信しようとしたところで、蓮から電話がかかってきた。
「早く資料を持ってきてくれ。こっちは急いでるんだ。ぐずぐずするな」
私は午後から受ける翻訳資格試験の受験票を握りしめ、唇を噛んだ。
「その試験って、まだ3か月先でしょう?そんなに急ぐ必要あるの?」
「紗季はいつも残業してまで手伝ってくれてるんだ。
時間がないんだよ。それくらいの頼みも、聞けないのか?」
スマホの向こうから聞こえてくる声に、私は一瞬ぼんやりした。
蓮にも、急ぐことがあるんだ。
「……分かった」
電話を切ると、配送代行サービスを探し、資料を紗季の自宅まで届けてもらうよう手配した。
出かける前から言い争うために気力を使いたくなかった。
それに、5年続いた関係に、最後くらいは少しだけ体裁を残しておきたかった。
けれど、そう簡単にはいかなかった。
翻訳資格試験まで、あと1時間。
バッグを手に取り、家を出ようとした。
そのとき、正面から蓮と鉢合わせした。蓮は私を見るなり、怒りをあらわにした。
その後ろには紗季が立っていた。
目には涙を浮かべ、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「よくもこんなくだらないマネをやってくれたな」
蓮はそう言って、束になった写真を私の顔に投げつけた。
拾い上げてみると、目を覆いたくなるような卑猥な写真ばかりだった。
写真に写る紗季の顔は、後から合成されたものであることが誰の目にも明らかだった。
私は呆然とした。
「俺が頼んだのは資料を届けることだけだ。
それなのに、どうしてこんな下劣な真似をする?
紗季を侮辱するために、こんな写真を送りつけるなんて」
蓮が私の顔を指差した。
その腕が大きく動いた拍子に、靴箱の上に置いてあった花瓶が倒れた。
ガラスが床に散らばり、その破片が一瞬で私のふくらはぎを切り裂いた。
「違う。私が送ったのは試験の資料だけ」
私は勢いよく顔を上げ、まっすぐ蓮を見つめた。
蓮は私を見て、わずかに目を見開いた。
「うっ……ごめんなさい、真帆さん。
真帆さんが私に不満があるのは分かっています。
蓮さんが私のことを気にかけてくれるのが嫌なんですよね。
でも、いくら嫉妬したからって、こんな写真を送りつけて脅すなんて……」
紗季は下唇を噛み、怯えた子猫のように身を縮めていた。
その姿は、誰が見ても庇いたくなるようなものだった。
紗季は高校時代の後輩だ。
2年前、北原市で男に騙され、持っていた金をすべて奪われたうえ、その男のために3度も中絶させられた。
行き場をなくした紗季を、私は半年以上、自分の家に置いていた。
お金を一銭も取らなかった。
今の仕事だって、私が探してやったものだった。
私はあれだけ親身になって尽くした。
それなのに、返ってきたのがこれだった。
私は乱れそうになる呼吸を整え、紗季へ視線を向けた。
「どうして私だって決めつけるの?証拠はあるの?」
「確かに、写真を封筒に入れるところを直接見たわけじゃありません。
蓮さん、真帆さんが違うって言うなら、もういいじゃないですか」
紗季は俯いたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「この荷物を送ったのはお前だろ。他に誰がいる?とにかく、早く紗季に謝れ」
蓮の冷たい目を向けられ、胸が詰まった。
まだ言いたいことはあった。
けれど、時間は刻一刻と過ぎていく。
試験会場へ急がなければならない。
私は玄関のドアを開けた。
次の瞬間、蓮に手首をつかまれた。
強く握られ、振りほどくこともできない。
「紗季に謝らないなら、どこにも行かせないぞ!
さっきの俺のやり方は、確かに少し焦りすぎていたな。
やはりこういうことは、こんな風にゆっくり解決するものなんだ」
蓮は一言一言、噛みしめるように言った。
その声だけが、妙にはっきりと耳に残った。
手首に食い込む指に、さらに力が加わる。
動こうとするたびに痛みが走った。
ふくらはぎの傷と手首の痛みがじわじわと広がり、やがて胸の奥まで届いてくるようだった。
この試験のために、私は半年以上準備してきた。
合格する自信だってあった。
絶対に、このチャンスを失うわけにはいかない。
私はこみ上げてくる涙を必死にこらえた。
「……ごめんなさい、紗季。私が悪かった。どうか許して」
「謝ってくれたなら、もうこの話は終わりにしましょう。
私だって、そんなに心の狭い人間じゃないですから」
紗季はそう言って、私の腕に自分の腕を絡めた。
その口元に浮かんだ笑みを、私は見逃さなかった。
「送っていくよ」
蓮の表情から、わずかに険が取れた。
「いい」
私は腕を引き抜き、バッグを手に玄関へ向かった。
「お前の車なら、もう洗車に出してる。
それにここは郊外だから、タクシーもすぐには捕まらないだろう」
結局、私は2人と一緒に車に乗るしかなかった。
「もっと急げない?遅れちゃう」
時間を計算しながら、私はバッグの持ち手を指先で何度も握り直した。
それでも蓮は、いつもと変わらず焦る様子がない。
「紗季は車に酔いやすいんだ。そんなに飛ばせない。
運転も酒造りも同じだ。急ぐものじゃない」
頭の中に、例の青切符が浮かんだ。
私は突然、吐き気を覚えた。
試験会場に着いたとき、試験監督は淡々と告げた。
「申し訳ございませんが、規定の入室限度時刻を1分過ぎておりますので、これより先の入室・受験は認められません……残念ですが、次回また出直してください」
私は脱いだハイヒールを手にしたまま、目の奥が熱くなるのを感じていた。
スマホを開く。
涙がぽろりと画面に落ち、光が滲んでいく。
私は蓮にメッセージを送った。
【蓮、もう別れよう】
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