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酒は寝かせる、愛は寝かせない第1話

この話は約2943字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

朝倉蓮(あさくら れん)はワイン醸造家だ。

彼は、何をするにも酒造りと同じで、じっくり時間をかけるべきだと信じている。

5年間の恋人生活で、私――高瀬真帆(たかせ まほ)が蓮を必要としたときに、彼が間に合ったことは一度もなかった。

「急がば回れ」は彼の口癖だった。

交際5周年の旅行。彼が空港に現れるのがあまりに遅れたせいで、私が3年も楽しみにしていた北欧のオーロラを見逃した。

婚約の席では、彼がホテルに現れるのがあまりに遅すぎたせいで、すべての段取りが台無しになっていた。

両親は何度も頭を下げ、親戚や友人一人ひとりに謝り続けた。

私が40度の高熱を出したときも、彼の帰宅はあまりに遅すぎた。

医師には、あと少し遅れていたら、脳に一生残る障害が出ていたかもしれないと言われた。

私は、それも彼の職業柄なのだと思っていた。

信号無視によって出された青切符を見るまでは。

どの違反区間も、蓮が水野紗季(みずの さき)の家へ向かうときに必ず通る道だった。

昨日、ワイナリーへ蓮を訪ねたときのことを思い出した。

販売担当の紗季が、首をかしげながら私のそばへ寄ってきた。

「真帆さん、羨ましいです。蓮さんって、本当に優しいですよね。

昨日、うちが停電して一人で怖がってないか心配してくれて、5分で駆けつけてくれたんです……

10キロもある道のりなのに」

私は切符を見つめた。

胸の奥が引き裂かれていくようだった。

もういい。

彼がそんなつもりなら、私も待つのをやめよう。

* * *

着替えを済ませてクローゼットを出ると、蓮からLINEが届いていた。

【家にある酒造技能検定の資料、持ってきてくれ。紗季が使うから】

【返事は?あまり待たせるんじゃない】

……

わずか1分の間に、蓮から十数件ものメッセージが届いた。

返信しようとしたところで、蓮から電話がかかってきた。

「早く資料を持ってきてくれ。こっちは急いでるんだ。ぐずぐずするな」

私は午後から受ける翻訳資格試験の受験票を握りしめ、唇を噛んだ。

「その試験って、まだ3か月先でしょう?そんなに急ぐ必要あるの?」

「紗季はいつも残業してまで手伝ってくれてるんだ。

時間がないんだよ。それくらいの頼みも、聞けないのか?」

スマホの向こうから聞こえてくる声に、私は一瞬ぼんやりした。

蓮にも、急ぐことがあるんだ。

「……分かった」

電話を切ると、配送代行サービスを探し、資料を紗季の自宅まで届けてもらうよう手配した。

出かける前から言い争うために気力を使いたくなかった。

それに、5年続いた関係に、最後くらいは少しだけ体裁を残しておきたかった。

けれど、そう簡単にはいかなかった。

翻訳資格試験まで、あと1時間。

バッグを手に取り、家を出ようとした。

そのとき、正面から蓮と鉢合わせした。蓮は私を見るなり、怒りをあらわにした。

その後ろには紗季が立っていた。

目には涙を浮かべ、今にも泣き出しそうな顔をしている。

「よくもこんなくだらないマネをやってくれたな」

蓮はそう言って、束になった写真を私の顔に投げつけた。

拾い上げてみると、目を覆いたくなるような卑猥な写真ばかりだった。

写真に写る紗季の顔は、後から合成されたものであることが誰の目にも明らかだった。

私は呆然とした。

「俺が頼んだのは資料を届けることだけだ。

それなのに、どうしてこんな下劣な真似をする?

紗季を侮辱するために、こんな写真を送りつけるなんて」

蓮が私の顔を指差した。

その腕が大きく動いた拍子に、靴箱の上に置いてあった花瓶が倒れた。

ガラスが床に散らばり、その破片が一瞬で私のふくらはぎを切り裂いた。

「違う。私が送ったのは試験の資料だけ」

私は勢いよく顔を上げ、まっすぐ蓮を見つめた。

蓮は私を見て、わずかに目を見開いた。

「うっ……ごめんなさい、真帆さん。

真帆さんが私に不満があるのは分かっています。

蓮さんが私のことを気にかけてくれるのが嫌なんですよね。

でも、いくら嫉妬したからって、こんな写真を送りつけて脅すなんて……」

紗季は下唇を噛み、怯えた子猫のように身を縮めていた。

その姿は、誰が見ても庇いたくなるようなものだった。

紗季は高校時代の後輩だ。

2年前、北原市で男に騙され、持っていた金をすべて奪われたうえ、その男のために3度も中絶させられた。

行き場をなくした紗季を、私は半年以上、自分の家に置いていた。

お金を一銭も取らなかった。

今の仕事だって、私が探してやったものだった。

私はあれだけ親身になって尽くした。

それなのに、返ってきたのがこれだった。

私は乱れそうになる呼吸を整え、紗季へ視線を向けた。

「どうして私だって決めつけるの?証拠はあるの?」

「確かに、写真を封筒に入れるところを直接見たわけじゃありません。

蓮さん、真帆さんが違うって言うなら、もういいじゃないですか」

紗季は俯いたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。

「この荷物を送ったのはお前だろ。他に誰がいる?とにかく、早く紗季に謝れ」

蓮の冷たい目を向けられ、胸が詰まった。

まだ言いたいことはあった。

けれど、時間は刻一刻と過ぎていく。

試験会場へ急がなければならない。

私は玄関のドアを開けた。

次の瞬間、蓮に手首をつかまれた。

強く握られ、振りほどくこともできない。

「紗季に謝らないなら、どこにも行かせないぞ!

さっきの俺のやり方は、確かに少し焦りすぎていたな。

やはりこういうことは、こんな風にゆっくり解決するものなんだ」

蓮は一言一言、噛みしめるように言った。

その声だけが、妙にはっきりと耳に残った。

手首に食い込む指に、さらに力が加わる。

動こうとするたびに痛みが走った。

ふくらはぎの傷と手首の痛みがじわじわと広がり、やがて胸の奥まで届いてくるようだった。

この試験のために、私は半年以上準備してきた。

合格する自信だってあった。

絶対に、このチャンスを失うわけにはいかない。

私はこみ上げてくる涙を必死にこらえた。

「……ごめんなさい、紗季。私が悪かった。どうか許して」

「謝ってくれたなら、もうこの話は終わりにしましょう。

私だって、そんなに心の狭い人間じゃないですから」

紗季はそう言って、私の腕に自分の腕を絡めた。

その口元に浮かんだ笑みを、私は見逃さなかった。

「送っていくよ」

蓮の表情から、わずかに険が取れた。

「いい」

私は腕を引き抜き、バッグを手に玄関へ向かった。

「お前の車なら、もう洗車に出してる。

それにここは郊外だから、タクシーもすぐには捕まらないだろう」

結局、私は2人と一緒に車に乗るしかなかった。

「もっと急げない?遅れちゃう」

時間を計算しながら、私はバッグの持ち手を指先で何度も握り直した。

それでも蓮は、いつもと変わらず焦る様子がない。

「紗季は車に酔いやすいんだ。そんなに飛ばせない。

運転も酒造りも同じだ。急ぐものじゃない」

頭の中に、例の青切符が浮かんだ。

私は突然、吐き気を覚えた。

試験会場に着いたとき、試験監督は淡々と告げた。

「申し訳ございませんが、規定の入室限度時刻を1分過ぎておりますので、これより先の入室・受験は認められません……残念ですが、次回また出直してください」

私は脱いだハイヒールを手にしたまま、目の奥が熱くなるのを感じていた。

スマホを開く。

涙がぽろりと画面に落ち、光が滲んでいく。

私は蓮にメッセージを送った。

【蓮、もう別れよう】

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