遠ざかる星、届かぬ風第3話
この話は約2039字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
行き先など、どこにもない。
私は赤く腫れた目で車を降りた。
気がつくと、幼い頃に過ごした古いマンションへと足が向いている。
湿り気を帯びた古びた木の階段を踏みしめ、ドアを開けようとしたその瞬間、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「唯、どうして俺を突き放すんだ?俺が好きなのはお前だって知ってるだろう!」
「あれはただの間違いよ!星奈が幸せになれるなら、私は何だって構わない!」
「そうか?本当にどうでもいいと思ってるなら、どうして隠れてここへ戻ってきたんだ!」
言い争う声が、ぴたりと止んだ。
私は涙を溜めたまま、ドアの隙間から中の様子を覗き見した。
そこには、壁に貼られたピンク色のハート型の飾りや、台所のあちこちに置かれたペアのマグカップと食器、そしてテーブルの上に美しい生け花がある。
すべてが、ここに住む恋人同士のラブラブな同棲生活を物語っている。
もし、これらすべてを用意したのが私でなかったら、どんなに良かっただろう。
あのハート型の飾りは、亡き母が私に切り方を教えてくれたもの。あの食器とマグカップは、母が二年にわたる抗がん剤治療に耐えながら、私のために作ってくれたもの。生け花は、母が亡くなる直前、自分の目で確かめながら少しずつ手作業で生けてくれたものだ。
「風馬くん、唯ちゃん……
これからの星奈を……どうか頼む……」
病床で、母は最後の力を振り絞り、お守りと共に私たち三人の手を固く握りしめた。
風馬と唯は涙を流しながらそれに応え、母の願いを裏切らないと誓った。
それなのに今、私が最も愛した男と、最も信頼した親友が、母の遺影の前で愛し合った。
枕元に掛けられていたあのお守りも、激しい睦み合いの最中に引きちぎられたのか、床に落ちてしまった。
「お前は星奈の幸せだけを願うと言ったが、じゃあ俺はどうなるんだ?
あいつにサプライズを用意するとき、俺が考えてたのはあいつの喜ぶ顔じゃなかった。ようやくお前に会えるっていう期待だけだった。
あいつが入院したときも心配はしたが、それ以上にお前と二人きりで出かけられることを楽しみにしてた。
あいつに付き添ってお前の演奏会に行ったとき、俺は平然を装いながら、半日を丸ごと潰してお前のための花を選んでたんだ。
間違いだなんて言われても構わないが、俺の心の中では、お前だけが本当の妻だ」
風馬は声を詰まらせ、苦しげに瞳を赤く染めている。
唯の瞳には、そんな彼の姿がありありと映し出されている。彼女はもう耐えきれなくなったように、激しく彼の胸に飛び込んだ。
「どうすればいいの……私たち、一体どうすればいいの……」
視界はすでに涙でかき消されている。
私は口を強く押さえ、まるで自分が悪いことでもしたかのように、その場から逃げ出した。
耳元を吹き抜ける風がすべてをかき消そうとしても、私だけが知っている。心の奥底にある痛みが、どれほど強く、はっきりしているかを。
走り続け、走り続け、ついには感情に引きずられるように、空っぽの胃が激しく痛み出した。
「すみません……ラーメンを一杯ください」
額に冷や汗を滲ませながら、私は一軒の店に滑り込んだ。
店主が器を運んできたとき、驚いたように声を上げた。
「おや、星奈ちゃんじゃないか!今日はあの二人の世話焼きさんは一緒じゃないのかい?」
力なく顔を上げると、それは見覚えのある顔だ。
店主は私の異変に気づく様子もなく、にこやかに割り箸を差し出してくれた。
「前の店にいた頃を思い出すぞ。毎週三人で味噌ラーメンを食べに来ては、あの子たちが競い合ってお前の器に肉を分けてやってたっけな。
一人はお前が背が伸びないのを心配して、もう一人は太らないのを心配して。いやあ、すっかり大きくなったな」
新しい客が来ると、店主は忙しそうにそちらへ向かった。
私は器に顔を埋め、涙と共に、一口また一口と麺を口に運んだ。
立ち上る湯気の中に、私をいつも気にかけてくれていた、あの頃の二人の姿が見えるような気がした。
「もう、ゆっくり食べなさいよ!火傷したらどうするの?」
唯が呆れたように私を見て、器を取り上げ、根気よくふうふうと麺を冷ましてくれた。
「ただでさえ胃が弱いのに、涙をスパイスにするなんて。誰に泣かされたんだ?言ってみろ。今すぐ俺がぶっ飛ばしてやるから!」
風馬は心配そうに私の涙を拭い、自分まで泣き出しそうな顔で私を見つめた。
私は呆然とその光景を見つめている。この瞬間のまま、永遠に時が止まってくれればいいのに。
けれど現実の冷たい風が吹くと、湯気は消え、人影も消え失せた。
私は箸を置き、しばらくその場に座り込んでいる。すると、会社の人事部からメールが届いた。
【ヨーロッパ赴任の辞令が出ました。二日後に出発しますので、早急に荷物をまとめてください】
私は【承知しました】と返答した。
そして、ラーメンの代金を支払った。
店主に声をかけることはしなかった。過ぎ去った日々を、これ以上かき乱したくないから。
一人、分かれ道に立って古いマンションの方を振り返り、私は悲しげに口元を上げた。
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