誰も聞かなかった「痛い」、私だけの自由第3話
この話は約2612字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
私は3日間、病院に入院していた。担当の看護師以外、誰も顔を見せなかった。
4日目の朝、看護師が入院費の支払いを催促しに来た。そこで初めて、入院費が未払いのままになっていることを知った。
私は尋ねた。
「あの人たち、お金を払ってないの?」
看護師は少し困った顔をした。
「昨日、ご家族が一度病院を出られて、あとで支払いに戻ると……」
朝から晩まで待ち続けたけれど、スマートフォンは一度も鳴らなかった。
夜になって、瑞歩がSNSを更新した。
位置情報には、海辺のホテルの名前が表示されていた。
麦わら帽子をかぶり、夕陽を背に立つ彼女の写真だった。
孝太郎が彼女の鞄を持ち、母が上着をかけてやり、父はそばで大切そうに彼女を守っている。
兄はカメラを構え、彼女のどんな表情も見逃すまいとしているようだった。
添えられた一文。
【赤ちゃん、はじめての海】
その写真を見つめるうち、指先が少しずつ強張っていった。
看護師が2度目の支払いを催促しに来た時、私は自分で会計を済ませた。残高は大きく目減りしたが、家に帰るぶんはなんとか残っていた。
家には誰もいなかった。確かに空っぽのはずなのに、家じゅうに彼らが帰って来てはまた出て行った痕跡だけが残っていた。
自室に戻ってドアを閉め、机のそばまで来たところで、突然、血が喉の奥からせり上がり、思わず咳き込んだ。
床に血が飛び散った。
机の角に手をついたまま長く咳き込み、何度も目の前が真っ暗になった。
ようやく咳が治まり、手を洗おうとした。
手を洗っていると、指の間にひと塊の髪の毛が絡みついているのに気づいた。
私はしばらく呆然としたあと、そっと頭に触れてみる。
またひと房、はらりと抜け落ちた。
鏡に映った自分は、別人のように痩せ細っていた。顔は土気色で血の気がなく、唇にも色がない。
孝太郎が以前、言っていたことを思い出す。
「君、いつもそんな暗い顔じゃ、見ているこっちが疲れる」
あの時私は聞いた。
「私、そんなに見苦しい?」
彼は、そうじゃないと答えた。
「ただ、瑞歩がいる時のほうが、部屋の中が明るくなる気がするだけだ」
床にかがみ込んで血を拭き取り、抜けた髪をゴミ箱に捨てた。まるで誰か他人のものを片づけているかのように、その動きはひどく緩慢だった。
それからパソコンを開き、婚約解消の合意書を作成した。
書き終えると、もう1枚紙を取り出した。「遺書」という2文字を書き付けたところで、ペン先が長く止まった。
本当はもっとたくさん書くつもりだった。けれど結局、残したのはほんの数行だけだった。
【もし私が死んでも、悲しむふりはしなくていい。
火葬して、きちんと骨にしてほしい。
そして、もうこの家と関わらせないで】
書き終える頃には疲れ果てていて、机に突っ伏したまま眠りに落ちた。
どれくらい経っただろうか。リビングから物音が聞こえてきた。旅行から戻ってきたのだ。
真っ先に聞こえてきたのは瑞歩の笑い声。母が「ゆっくり、転ばないようにね」と声をかけ、孝太郎は瑞歩に、疲れていないかと小声で尋ねていた。
私は部屋から出なかった。
すぐにドアが開かれた。瑞歩が顔を覗かせ、机の上の紙にすぐ目を留める。彼女は足早に歩み寄り、迷いなく遺書を手に取った。
はっと目を覚ました私は、慌てて奪い返そうとした。
「返して」
彼女は身をかわし、ざっと目を通すなり、すぐに目を赤くした。
「お姉ちゃん、どういうつもり?
こんなものを書いて、私がお姉ちゃんを追い詰めたって、家族みんなに思わせたいの?」
外にいた家族がすぐに駆け込んできた。父は彼女の手の中の紙を見るなり、顔を曇らせた。
母の声が強張る。
「留佳、一体何を考えてるの!?」
私は怒りで胸が締めつけられた。
「それは私のものよ。返して!」
孝太郎が先に紙を取り上げた。読み進めるにつれ、その表情がみるみる険しくなっていく。
母はその場で泣き出した。
「あなたはどうしても妹を死に追いやりたいの!?
妊娠してる子に、こんなものを見せつけてどうするつもり?」
私は母を見つめ、ふいに笑いが漏れた。
「私ひとりを病院に置き去りにして、あの子を連れて海に行ったのはそっちでしょう。
それなのに、私が紙切れを数枚書いただけで、今度は私があの子を追い詰めたことになるの?」
父が冷ややかに言った。
「瑞歩を刺激しちゃいけないのは分かっているだろう。
こんなものをわざわざ見せるのは、あの子に罪悪感を抱かせたいだけじゃないのか」
瑞歩はお腹を押さえ、孝太郎の胸に身を寄せた。
「やっぱり、お姉ちゃんは私とこの子を許せないのね。
私を死に追いやりたいだけなんだ」
何を言っても、誰も信じてはくれない。それが分かっていたから、私はいっそ頷いてみせた。
「ええ、その通りよ。私はそういう狂った女なの。これで満足?」
不意に孝太郎が口を開いた。
「留佳」
手にした紙を握りしめ、その目が赤く染まっていく。
「あの年、実験棟が火事になった時。君が俺を引きずり出してくれた。
俺は君に、命を救ってもらった借りがある」
私は言葉を失った。大学時代のあの火事、私は実験棟に飛び込んで彼を助け出した。
自分自身は煙を吸い込み、半月も入院することになった。
あの時、彼は私の手を握って言ったのだ。
「留佳、俺は一生君を大事にする」と。
孝太郎は紙を机に叩きつけた。
「俺が君に借りがあると思っているんだろう?
それなら、今ここで清算してやる」
言い終えるなり、彼は身を翻して部屋を飛び出していった。その場にいた全員が、一瞬動けなくなった。真っ先に母が悲鳴を上げた。
「孝太郎!」
私は机の角に手をついて立ち上がり、よろめきながら後を追った。廊下の突き当たりに駆けつけた時、3階のベランダの縁に彼の姿が見えた。
孝太郎は一度だけ、私を振り返った。そして、手すりを越え、飛び降りた。
階下から鈍い音が響いた。悲鳴と足音が入り乱れる。
みんなで階下に駆けつけた時、孝太郎は地面に倒れていた。脚が不自然な角度に折れ曲がっている。
命に別状はなかったものの、脚の骨を折っていた。
瑞歩は立っていられないほど泣き崩れていた。母が私を振り返った目は、氷のように冷え切っていた。
次の瞬間、母は駆け寄ってきて私の頬を打った。
「これで満足!?
この家を壊したくて仕方なかったんでしょう」
私はその場に立ち尽くしたまま、顔を横に向けていた。
孝太郎は、自分の意思で飛び降りたのだ。
それはみんな、その目で見ていたはずだった。
けれど結局、悪いのは私だということになっていた。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)
第4話は公式アプリで
当サイトでの試し読みはここまでです。アプリをインストールし、下のアプリ用コードを入力すると、この作品の第4話からそのまま読み進められます。
U30243- 下のボタンから公式アプリをインストールします(無料)。
- アプリを開き、「コードを入力」にこのコードを入れると、この作品が本棚に入ります。
作品ページへ戻る 当サイトに掲載しているのは試し読みの章だけです。