誰も聞かなかった「痛い」、私だけの自由第1話
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婚約者の高間孝太郎(たかま こうたろう)が、私の養妹、米光瑞歩(よねみつ みずほ)と新居に用意したベッドで体を重ねる姿を目撃したあの日――
うつ病の症状がひどくなった私、米光留佳(よねみつ るか)は睡眠薬を30錠、一度に飲んだ。
一命を取り留めた私に、両親は静かに切り出した。瑞歩が不治の病に侵され、余命3か月と宣告されたのだと。
「許すかどうかは、お前が決めろ」
孝太郎も目を潤ませて私の前に跪いた。
「君が許してくれても、くれなくても、1か月後には必ず結婚式を挙げる」
後悔に満ちたその表情に、私はついほだされてしまった。
けれど、それも医師である兄、米光蒼介(よねみつ そうすけ)のスマホで、あるやり取りを目にするまでの話だ。
音声メッセージの中で、瑞歩が甘ったるい声を上げて笑っていた。
「やっぱりお兄ちゃんはすごいよ。偽の診断書1枚で、あのイカれた女を思い通りに操れるんだから」
震える手でスマホを握りしめ、私は家族が集まるリビングへ向かった。
兄は無言で煙草に火をつけ、押し黙っていた。
両親はうんざりした顔で私をなじった。
「お前の心が弱すぎるのが悪いんだろう。お前がまた自殺を図るんじゃないかと心配したから、こんな手の込んだ嘘をつく羽目になったんだ」
孝太郎に至っては、恨めしそうに私を睨み、瑞歩を背後に庇いながら、こう言い放ったのだ。
「少しくらい大目に見てやれないのか。家族を滅茶苦茶にする気か」
誰よりも愛した男と、血のつながった家族が、悪びれもせずに放つ言葉を聞きながら、口の中に広がる血の味を感じ、私は静かに笑った。
彼らは瑞歩を守るため、手の込んだ嘘まで吐いて「不治の病」をでっち上げた。
けれど彼らは知らない。私の重度の鬱病が、本物であるということを。
うつ病の身体症状によって、複数の臓器が機能不全に陥っていることも、紛れもない事実だということを。
もう、この家はいらない。
どうせ私は、この冬を越せないのだから。
* * *
兄が灰皿で煙草を揉み消し、低い声で問う。
「……もう気が済んだか?」
私は黙って兄を見つめた。
幼い頃、注射が怖くて泣きじゃくるたび、兄は私を抱きしめて慰めてくれた。「留佳、怖くないぞ。お兄ちゃんがいるからな」って、いつも言ってくれた。
それなのに、私が本当に病に倒れてからは、一度たりとも「苦しくないか」と気遣ってはくれなかった。
私は小さく頷いた。
「わかった。もう暴れたりしない」
そのひと言に、彼らはかえって戸惑ったように顔を見合わせた。
母が警戒するような目で私を見る。
「留佳、どういうつもり?」
「別に。もう騒がないって言っただけよ」
孝太郎が目を潤ませる。
「留佳、二度と早まった真似はしないでくれ」
その顔を見ていると、ふいに酷い疲労感が押し寄せた。
「うん、しない」
誰も信じてくれないだろうけれど。
身分証を取りに部屋へ戻り、引き出しを開けたところで、孝太郎が後を追ってきた。
彼は私の手首を強くつかんだ。
「何をする気だ」
私は振りほどこうとした。
「離して」
ドアの外から母の声がした。
「孝太郎、しっかり見ていて。また何かやらかすに決まってるんだから」
その言葉に、私はその場で凍りついた。
次の瞬間、兄が物置からひと巻きのロープを取り出した。真っ白で、不気味なほど太いロープ。
「お兄ちゃん、私を縛るつもり?」
兄は私の視線を避けた。
「今のお前は精神的に不安定すぎる。少し落ち着け。一晩頭を冷やせ」
瑞歩のために、兄は私を縛り上げて閉じ込めようとしている。
「こんなことして、許されると思ってるの!?」
身を翻して逃げようとした私を、孝太郎が力ずくで椅子へ押さえつける。
どうしても抜け出せなかった。
私の体はとうに限界を迎えていた。あの時、薬を大量に飲んで救急搬送されて以来、少しの間立っているだけで手足が震えるのだ。
兄は俯いたまま、無駄のない手つきで私の両手を縛り上げていく。
ロープが手首に食い込んだ瞬間、痛みに思わず息を呑んだ。
兄は一瞬だけ動きを止め、「動くな。怪我をするのはお前だぞ」と冷たく言い放った。
その横顔を見つめながら、なんて偽善的なのだろうと思った。
部屋の中は隅々までひっくり返されていた。
母は目を腫らしながら言う。
「留佳、お母さんを恨まないで。みんな、あなたに何かあったらと思うと怖いのよ」
私は尋ねた。
「私に何かあるのが怖いの?それとも、大事な瑞歩を、私が傷つけるのが怖いだけ?」
母の顔から血の気が引いた。
ドアの外で、父が低く重たい声を出す。
「いい加減にしろ」
ドアが閉まり、鍵がかかる音に続いて、ドアチェーンを掛ける音がした。
その後、私はベッドに移され、横たわっているうちに、縛られた手首が少しずつ痺れていった。
ドアの外からは瑞歩の泣き声が聞こえ、家族みんなが口々に彼女を慰めている声も聞こえた。
夜が更けた頃、ドアの鍵が開く音がした。
瑞歩が部屋に入ってくる。部屋の明かりはつけず、枕元のスタンドライトだけを点けた。
暖かな橙色の光に照らされた顔に、もう涙の跡はない。
ベッドの傍らに立ち、縛られた私の手を一瞥すると、彼女はゆっくりと口角を歪めて笑った。
「お姉ちゃん、そんな姿になって、惨めだね」
私は冷ややかな視線を返した。
瑞歩は腰を下ろし、声をひそめて言った。
「本当はね、この家の誰も、お姉ちゃんのことなんて愛してない。もうみんな、うんざりしてるの。
孝太郎さんがお姉ちゃんのそばにいるのだって、愛してるからじゃない。昔、命を助けてもらった恩があるから、簡単に切り捨てられないだけ」
私は指先をぎゅっと握りしめた。
瑞歩はさらに顔を近づけてくる。
「私といると楽しいって、彼、言ってたよ」
胸の奥を重い泥で塞がれたように、息苦しくなる。
瑞歩は私を見据えたまま、さらに軽やかに笑った。
「お姉ちゃん、どうしてまだ死なないの?
死んでくれたら、みんな楽になれるのに」
私はしばらく彼女を見つめたあと、ふいに口を開いた。
「……夢でも見てなさい」
瑞歩の顔から笑みが消える。
「あなたに譲る気なんて、ないから」
彼女は眉をひそめた。私は構わず、ゆっくりと言葉を続けた。
「私が婚約を解消しない限り、あなたはいつまで経っても、ただの浮気相手でしかないのよ」
次の瞬間、頬に平手が飛んできた。
私はその勢いでベッドから落ち、腰をベッドの角に強く打ちつける。
痛みのあまり、私は床にうずくまった。
瑞歩は勝ち誇った顔で、床にうずくまる私を見下ろしている。
「これが、身の程知らずの報いよ!」
言い放った直後、彼女は突然、泣き声を上げ始めた。
「お姉ちゃん!どうして私を叩くの!」
そして、薄れゆく意識の中で、私が最後に見たのは――血相を変えて駆け込んできた孝太郎が真っ先に瑞歩へ駆け寄り、その名を呼ぶ光景だった。
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