親友にネクタイを直される婚約者、私にはいらない第3話
この話は約1705字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
「冷徹な石井社長も、こういう顔をするのね」
「本当、あつあつだなあ」
周りにはやし立てられて、陽菜は頬を赤らめた。
「でも石井社長、今、目の前にいるのが誰か、ちゃんと見えてるんですか?」
竜也はテーブルを叩き、声を張り上げた。
「当然さ。ひーちゃんに決まっているだろう?」
その瞬間、私の心の中で消え残っていた独りよがりな思い込みが粉々に砕け散った。
ずっと「ひーちゃん」だったのだ、「いーちゃん」ではなかった。
もしかしたら、竜也が私を「いーちゃん」と呼んでいたのも、「ひーちゃん」に似た音だったからなのかもしれない。
「ひーちゃんは苺のケーキが好きで、コーヒーはブラック派で、辛いものもだめで、体が弱くてすぐ調子を崩すし、生理の周期は……」
竜也が並べ立てる陽菜についての細かな情報に、私の血は凍りつくようだった。
足元から這い上がる寒気が、全身を貫いた。
竜也は一度も、私のことを覚えていてくれたためしがなかった。
私は苺の味が苦手なのに、彼は仕事帰りに何度も苺のスイーツを買ってきていた。
仕事が忙しいからだ、女心に疎い不器用な男だからだと、自分に言い聞かせていた。
今になってやっとわかった。彼は女心がわからないわけじゃなかった。ただ、私の心をわかろうとしなかっただけだ。
彼の頭の中にあったのは、いつだって陽菜のことだったんだ。
「一番の違いはさ、ひーちゃんは葵みたいにお堅くなくて一緒にいて楽しいんだよ。葵って本当に色気ってもんがないから」
周りの連中がすかさず囃し立てる、「本当、お似合いですね」
竜也は得意げに言った。
「もちろんだ。ひーちゃんのためじゃなかったら、村田家との婚約なんて引き受けてない。
葵と結婚して、そのうち本心を打ち明けてやるよ……俺が愛しているのはひーちゃんだ、って……」
陽菜は恥ずかしそうに、「そんなこと、大きな声で言わないでよ」と答えた。
「彼は酔っ払ってるんだから、聞き流して」
口ではそう言いつつも、陽菜は止めようとするそぶりもなく、竜也の甘い言葉も周りのはやしたてもすべて、心ゆくまで楽しんでいた。
私はこれ以上いたたまれず立ち去ろうとしたところ、竜也の親友の葛城翔吾(かつらぎ しょうご)とぶつかった。
「葵さん?
来てたなら、中に入ればよかったのに」
個室の中にいた全員が気配に気づき、一斉にこちらを向いた。
陽菜が、いかにも慌てたような素振りで言った。「葵、どうして……ここに?」
私はきょとんとした。あなたがわざと私のことをここに呼んだんでしょ?
二人がいかに愛し合っているかを、私に見せつけたくて。
「誰が……来たんだ?ひーちゃん、誰が……」
竜也は泥酔していて、言葉もまともに話せなかった。
私に気づいた者たちは黙り込み、その場に気まずい空気が流れた。
陽菜が、千鳥足の竜也を支えながら、わざとらしくゆっくりと私の方へ近づいてきた。
「葵、誤解しないで。ただ通りがかって、酔いつぶれている竜也を見かけたから、気になって声をかけただけなの」
稚拙な言い訳と、あからさまな挑発、私のことを馬鹿にしているのだろうか。
怒りで手が震えていた。
「ずっとあなたのことを呼んでいたわ、あなたが来てくれたんだから、私はもう行くわね。彼のこと、ちゃんとみてあげてね」
陽菜は竜也を私に押し付けると、翔吾と腕を組み、こう言った。「そうそう、私の恋人が誰か知りたいんでしょ?翔吾のことよ。じゃあね!」
私は信じられない思いで二人の後ろ姿を見送りながら、竜也が必死に求めていた陽菜が、よりによって親友とデキていると知ったら、彼も私のように絶望するのだろうか、と考えた。
突然体を預けられた竜也は、大きくよろめいた。
私はとっさに手を伸ばして、竜也の体を支えた。
「ひーちゃん、一緒に帰ろう」
胸を刃物で刺されるような痛みを感じつつ、目元を熱くさせながら冷静に言った。
「私を誰だと思っているの?」
竜也は構わず私を抱き寄せ、強く離さなかったが、口の中では、去っていった陽菜の名前を呼んでいる。
あれほど愛した竜也との腕の中に、今は吐き気しか感じない。
突き放そうとしたが、竜也の力は思ったより強かった。
腕が肩に食い込んで痛い。
仕方なく、私は彼を家まで送ることにした。
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