裏切り局長の夫を捨て、天才物理学者へ第3話
この話は約2623字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
翌朝、佳奈が目を覚ました時、外はすでにすっかり明るくなっていた。
寝室を出ると、慎吾がすでにダイニングテーブルについていたが、彼の前には何も置かれていなかった。
彼は不機嫌そうな顔をして、足音に気づくと佳奈を見上げて言った。「朝食はどうした?」
佳奈はキッチンへ歩き、コップにお茶を注いでゆっくりと口にした。「最近少し疲れていて、起きられなかったんです。外にお店もありますし、自分で買ってきてください」
慎吾はその悪びれもしない佳奈の態度に言葉を詰まらせ、こめかみを押さえながら苛立たしげに言った。「俺も樹も偏食なのは知ってるだろう。外の飯なんか食えるわけないだろ」
慎吾は一息つくと、もう咎める気も失せた様子で立ち上がった。「もういい、行くぞ。とりあえず一緒に病院へ行く。樹が昨日、注射を痛がって、ずっとお前を呼んでたんだ」
佳奈はコップを置き、静かに首を振った。「用事がありますので、私は行きません」
「用事だと?」慎吾は信じられないという顔で佳奈を見た。「昨日、ちゃんと話し合っただろう。それに、用事があっても後回しにできないのか?怪我をした息子を見に行くより大事なことがあるのか?」
佳奈は顔を上げ、さざ波ひとつ立たない静かな瞳で慎吾を見つめた。
「ええ、樹より大事なことです」
慎吾は言葉を失った。聞き間違いかと思ったのか、それとも彼女の言葉に込められた頑なな意志に驚いたのか。
ちょうどその時、玄関のドアが優しくノックされ、穏やかな女性の声が響いた。「慎吾さん?佳奈さん?いらっしゃいますか?」
理央だった。
理央の前で取り乱したくなかったのか、慎吾の不機嫌な顔色は一瞬で引き、足早にドアを開けに行った。
理央は上品なブラウス姿で、手にはフルーツと高級な焼き菓子の詰め合わせを提げ、表情にはちょうどよい心配と優しさを浮かべていた。
「慎吾さん、樹くんが事故に遭ったって聞いて……少しですが、心ばかりの品を持ってきました。私もお見舞いに行きたくて」
理央は佳奈の方へ向き直り、優しい笑みを浮かべた。「佳奈さん、誤解しないでくださいね。私と慎吾さんは……もう過去のことです。今はお二人が家庭を築いているのですから、私はただ慎吾さんの幸せと、お子さんの無事を願っているだけです」
佳奈は口角を僅かに上げただけで、何も言わなかった。
前世でも、まったく同じ言葉を聞いていた。
慎吾は口では「理央とは過去のことだ」と言いながら、いつもポケットに彼女の写真を忍ばせ、酒に酔えばベランダでタバコを吸いながら、理央の家の方角をぼんやり見つめていた。
理央も、「静かに幸せを見守りたい」と言いながら、事あるごとに慎吾を呼びつけた。電球が切れた、水道が壊れた、仕事で困った、気分が落ち込んだ――何かにつけて慎吾を頼った。
一人は深い愛情を装い、もう一人は引いて見せて相手を思うままにする――二人で手を組み、自分を騙していたのだ。
「気にしていませんよ」佳奈は淡々とした声で言った。「ちょうど私はお見舞いに行く時間がなかったので、理央さんが代わりに行ってくれるなら助かります。好きなだけ樹に会って、世話をしてあげてください」
理央の笑顔が一瞬こわばった。
挑発するつもりで来たのに、あまりにもあっさり受け流され、用意していた言葉が喉に詰まったのだ。
佳奈はもう理央を見ようともせず、自分のキャンバスバッグを手に取って、外へ出ようとした。
「待って!」理央が突然彼女を呼び止め、再び笑みを作った。「佳奈さん、少しだけ二人でお話しできませんか?」
佳奈は足を止め、眉をひそめて振り返った。
ちょうどその時、隣の家で祝い事があり、駆けつけていた料理人が煮えたぎる油の入った鍋を抱え、彼女たちの家の前を慎重に通り過ぎて、隣の庭へ向かおうとしていた。
理央の目が一瞬光り、彼女の足元にあった石を「うっかり」蹴り飛ばし、その石は正確に料理人の足元へと転がっていった。
料理人は不意を突かれて足を滑らせ、そのまま後ろへ倒れ込んだ。その手から離れた鍋の煮えたぎった油が、一気に佳奈と理央に向かって飛び散った。
「危ない!」
慎吾の叫び声と、煮えたぎった油が弾ける音が同時に響いた。
佳奈はとっさに身を引いたが、それでも熱い油が腕と脚に飛び散り、焼けつくような激痛が走った。理央も悲鳴を上げ、肩と背中に油を浴びていた。
二人は同時に叫び声を上げて、地面に倒れ込んだ。
慎吾は血相を変え、駆け寄ろうとした。
だがその瞬間、路地裏から制御できなくなった荷車が坂を下って、こちらへ真っ直ぐに突っ込んできた。重い荷を積んだ荷車が、倒れている二人へと迫ってきていた。
一瞬の判断で、慎吾が救えるのは一人だけだった。
慎吾は迷わず飛び出し、理央を抱き上げて安全な場所へと転がり込んだ。
一方の佳奈は、体をひねってよけるのが精一杯で、荷車の車輪が彼女の全身を容赦なく轢き潰していった。
メキッ――
骨の砕ける音がはっきりと響いた。
激痛が一気に押し寄せ、目の前が真っ暗になり、佳奈は完全に意識を失った。
……
再び微かな意識を取り戻した時、そこは病院だった。
全身が痛み、特に左脚とやけどの箇所が焼けつくように痛んだ。耳元では、かすかに話し声が響いていた。
「藤堂局長、お二人の女性はどちらも重傷です。やけどの範囲も広く、直ちに特効薬を投与して炎症を抑え、感染を防がなければなりません」医師の切迫した声だった。
「使ってください!すぐに申請します!」慎吾の焦った声だった。
紙をめくる音、ペンの走る音、そして慎吾が側近の部下である村上翼(むらかみ つばさ)に矢継ぎ早に指示を出す声が続いた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
やがて翼が息を切らして戻ってきた。「局長!薬の許可は下りましたが……物資管理課の報告では、特効薬は残り1本しかありません!追加の分は現在手配中ですが、いつ届くか分からないとのことです」
医師が慌てた。「それでは困ります!二人とも危険な状態だ、すぐに使わないと、感染で命取りになりますよ!」
慎吾の声が低く沈んだ。「追加を待ってはいられない。まずは1本使って、もう一人は……何とかするしかない。先生、どちらに使うべきだと思いますか?」
医師は即答した。「それなら当然、奥様の方です!広範囲のやけどに加えて、骨折と内部損傷もあります。感染リスクが高く、特効薬が必要です!」
「ダメ!理央さんに使って!」
幼いながらも強い意志を帯びた声が、医師の言葉を遮った――樹だった。
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