裏切りの果て第3話
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その瞬間、私は理性を失った。
まるで狂ったみたいに駆け寄り、美咲を突き飛ばしてスマホを奪い取った。
「きゃー!」
美咲は悲鳴を上げ、鳴海の胸に倒れ込んだ。
「社長!知玖さんが、私を突き飛ばして!」
鳴海はテーブルを叩いて立ち上がり、怒鳴りつけた。
「秋山知玖、何をしてる!正気か!美咲に謝れ!」
そんなことに構っている暇はなかった。
震える手で、私は急いで着信履歴からかけ直す。
電話の向こうから、医師の切迫した声が響いた。
「知玖さん、どうして今まで電話に出なかったんです!お母さまが急性心不全です。今すぐ手術しなければ命が危ないですよ!
手術費用は即時入金が必要です。五分以内に確認できなければ、こちらも手の打ちようがありません!」
――五分。
私は顔を上げ、鳴海を見た。
「鳴海……サインを」
声は震えていたが、必死で背筋を伸ばす。
鳴海は、美咲の赤く腫れた肘を一瞥し、冷笑する。
「今さら俺に頼むのか?
さっき突き飛ばしたときは、ずいぶん威勢がよかったじゃないか」
彼は足元の絨毯を指さした。
「跪け。
美咲に頭を下げて謝れ。そうしたらサインしてやる」
個室は、死んだように静まり返った。
高橋は見物するようにタバコに火をつける。
美咲は鳴海の腕に寄り添い、勝ち誇った目で私を見ていた。
時間が過ぎていく。
母は、手術台の上で生死の境をさまよっている。
五年間愛した男が、今は母を人質にして、不倫相手に、私を跪かせようとしている。
鳴海の見慣れた顔を見つめながら、私は初めて――この人が、まったくの他人に見えた。
五年前の、大雪の日。
彼は資金集めのために飲み過ぎて消化管出血し、安アパートで高熱にうなされていた。
私は彼を背負い、一歩一歩雪に足を取られながら、三キロ先の病院まで歩いた。
あの日、目を覚ました彼は私を抱きしめて泣き、「一生をかけても君を裏切らない」そう誓った。
――誓いなんて、やっぱりこの世で一番安いものだった。
「鳴海」
私は静かに、彼の名を呼んだ。
「必ず、報いを受けるわ」
そう言い残し、私は背を向けて走り出した。
背後から、鳴海の逆上した叫び声が飛んでくる。
「待て!今出て行ったら、その金は一円も出さないぞ!どうやってあのババアを助けるつもりだ!」
私はホテルを飛び出し、タクシーを捕まえた。
「東川病院まで!急いで!」
車内のラジオでは、ちょうど鳴海の起業家インタビューが流れている。
司会者が尋ねる。
「これまでで、一番感謝している方は?」
鳴海は自信に満ち、情感を込めていた。
「まずは自分自身ですね。決して諦めなかったこと。それから、今そばにいてくれる彼女です。新しいインスピレーションをくれました」
――私の名前は、なかった。
一言も。
私はラジオを切り、こらえていた涙が、ようやく頬を伝って落ちた。
病院に着くと、私は正気を失ったように会計窓口へ駆け込んだ。
だが、カードの残高はまったく足りない。
絶望の中、高利貸しに借りに行こうとした時、看護師が私を呼び止めた。
「知玖さん?お母さまの手術は、すでに始まっています」
私は呆然とした。
「……誰が、払ったんですか?」
「神楽という苗字の男性です。一千万円、一括で預けてくださいました」
――神楽?
理解が追いつかないうちに、スマホが震えた。
鳴海からのMMSだ。
ホテルのベッドで絡み合う、鳴海と美咲の写真。
添えられたメッセージは――
【大人しく戻ってきて謝れば、このことはこれで済ます。さもないとこの業界から君を完全に消してやる】
その写真を見ても、心は意外にも平穏だった。
むしろ気持ちが悪くなった。
私は五年間大切に保存していたツーショット写真をすべて削除し、鳴海の番号も、完全にブロックした。
会社にも、家にも戻らなかった。
向かったのは、街の反対側にあるCBD。
――競合企業、神楽海斗(かぐら かいと)の会社ビル。
最上階のオフィスで、海斗は掃き出し窓の前に立ち、赤ワインのグラスを軽く揺らしている。
私を見ても、驚いた様子はない。
「知玖さん、ようこそ。
違約金はこちらで払った。あなたの恨み――俺が、全部引き受ける」
その瞳は、深く静かだった。
私は差し出されたグラスを受け取り、軽く合わせる。
「神楽社長、よろしくお願いします」
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